トルコと日本の間では歴史の中で様々な関わりがありましたが、今回はその中から特に有名な出来事を4つピックアップしてトルコと日本が絆を深めた理由をご紹介したいと思います。
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親日の始まり「エルトゥールル号遭難事件」
1890年(明治23年)に軍艦エルトゥールルが和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した遭難事件が親日の始まりと言われています。
wikipedia エルトゥールル号
▼事件の経過
日本からの帰途、強風にあおられたエルトゥールル号は紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突し、機関部が浸水してしまい水蒸気爆発を起こします。そのとき600名もの人が海に投げ出されたそうです。
生存者は数十メートルの断崖を這い上り灯台守に遭難を知らせ助けを求めました。
通報を受けた大島村(現在の串本町)の住民は総出で救助と介抱に当ります。台風で大島村の住民も漁に出られずに蓄えが僅かだったのにもかかわらず、非常食や衣類を提供し献身的に救護を務めました。
この事件は死亡・行方不明者587名という大惨事でしたが、大島村の住民たちのおかげで69名の方が生還することができました。
▼事件をきっかけにトルコと日本の架け橋になった山田寅次郎さん
これを聞いた明治天皇は大いに心を痛め可能な限りの援助を行うよう指示。新聞はニュースとして伝え多くの義捐金・弔慰金が寄せらました。
その中でも、特に義捐金に影響を与えたのが山田寅次郎という方がおられます。
彼は民間人でありながら『エルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金』を集めるキャンペーンを行い、事件の翌々年に集まった義捐金を携えて自らオスマン帝国のイスタンブルに渡りました。
熱烈な歓迎を受けた彼は皇帝アブデュルハミト2世に拝謁、そのときに皇帝からの要請でオスマン帝国に留まることを決意。
士官学校で少壮の士官に日本語や日本のことを教え、政府の高官のイスタンブル訪問を手引きするなど、日土国交が樹立されない中で官民の交流に尽力しました。
この士官学校には、後のトルコ共和国の初代大統領となったムスタファ・ケマルもいたとされています。
blog.iae.org 山田寅次郎さんの写真
これらの日本の無償の行動にオスマン帝国は大変感銘を受けたとされています。
日露戦争の日本海海戦の勝利
日露戦争の天王山とされる「日本海海戦」
大国のロシアに、当時開国をして50年ほどしか経っていないアジアの小さな新進国の日本が勝てるわけがないというのが世界各国の見方でした。
しかし、その予想を覆し東郷平八郎率いる連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を撃沈し、海戦史上最も圧倒的とされる一方的な勝利を掴みとります。
wikimedia
▼世界を震撼させた日本勝利の報
これに歓喜したのは日本だけでなくトルコもそうでした。
ロシアに近いトルコは常にロシアからの脅威に曝されていましたが、強国に敵うわけもなく八方ふさがりのような状態でした。
そこに舞い込んできたのが日本の勝利の報、トルコは政治的な面はもちろん、アジアの国が大国に打ち勝つという快挙に感銘を受けました。
また、この戦いにおいて捕虜になったロシア兵たちを手厚く介抱し、更には自国での軍法会議を恐れたロシア士官を日本に留まらせる自由を与えるなど、戦時国際法を徹底した日本の姿勢は世界から賞賛を受けました。
wikipedia 東郷平八郎
日本海海戦後、勝利の立役者となった東郷平八郎はトルコで大人気となり、生まれた子供の名前を「トーゴー」にする方が大変多かったと言われています。
トルコ共和国は明治維新に倣って改革を行った
日本が大国ロシアに勝利した最たるきっかけとなったのが明治維新です。
日本海海戦後、アジア諸国には「アジア人も西洋のマネをすれば世界と戦える」という考えを浸透させました。
トルコも明治維新に倣って改革を行います。トルコ共和国・建国の父、初代大統領ケマル・アタテュルクは、明治天皇をこよなく崇拝し、陛下の写真を自分の机に飾っていたという逸話もあるようです。
wikipedia トルコ共和国初代大統領ケマル・アタテュルク
イラン・イラク戦争時のトルコからの恩返し
イラン・イラク戦争中の1985年3月、大統領サダム・フセインは
「今から40時間後をタイムリミットとしてこれ以降終戦までの間イラン上空を飛ぶ航空機は軍用機であろうと民間航空機であろうといかなる国の機体であろうとすべて撃墜する」
という布告をしました。
世界各国は自国民を救出するために救援機を出し自国へと退避させましたが、日本政府だけ素早い決定ができなかったた為に216名の日本人が空港に取り残されてしまいました。
イラン大使館の大使は日頃から親交のあったトルコ大使館の大使に窮状を訴えます。トルコは即座にトルコ航空をイランに派遣し、タイムリミット僅かの1時間15分前にトルコ領空へ216名の日本人全てを退避させます。
このとき、日本大使はトルコ大使にこんなことを言われたそうです
「あの時の恩を返す時が来た」
アイキャッチ参照:pichost.me
記事:まきりし
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120年前のご先祖様に恥じぬ生き方をしていきたい
見返りなど考えず行動すればその真意は心に届く。
座右の銘として留めたい。
歴史は繰り返される。イランでいただいた恩を返す時が必ず来るので日本人として、その時を見逃さない様、気を付けたい。
友好、同盟、団結等は概ね戦時下等で見られる事が多いと思われる。
人と人との争いは絶えないが、自然との戦いが増えつつ有る今、こんな関係が様々な国と築かれればと思う。
トルコとの関係も初めは自然災害であったように(^^)
とてもわかりやすかった