第二次世界大戦中のリトアニアで、ナチスドイツによって虐殺されようとしていた6000人のユダヤ人の命を、「命のビザ」によって救った日本の外交官です。
その功績から「日本のシンドラー」と呼ばれ、彼が作った「命のビザ」は今年、ユネスコの世界記録遺産の候補に挙がり、12月には彼の人生を描いた映画の公開が予定され、世界中から話題を集めています。
今回は、そんな杉原千畝の功績と、彼の作った「命のビザ」について紹介します。
commons.wikimedia.org/public domain/外交官時代の杉原千畝
満州からヨーロッパへの赴任
杉原千畝は元々、日本の外務省から満州国の外交部事務官として出向し、主にソ連(旧帝政ロシア)との交渉に当たっていた人物で、その仕事ぶりは外務省で高く評価されており、「ロシアのエキスパート」として頭角を現していました。
しかし、満州国で中国人に対して横暴を働く関東軍に嫌気がさし、1935年(昭和10年)に外交部を辞任して日本へ帰国し、外務省へ復帰。
1937年(昭和12年)に日本の外交官としてフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任し、そこから1939年(昭和14年)にリトアニアの在カウナス日本領事館の領事代理としてリトアニアに赴任しました。
この赴任が、杉原千畝の運命を大きく左右したのです。
commons.wikimedia.org/Bonio/カウナスに残る旧日本公使館
「命のビザ」誕生
杉原がリトアニアに赴任してから4日後、隣国のポーランドにドイツ軍が侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。
ドイツ軍の圧倒的な力の前に、ポーランドはあっという間に占領されてしまい、ドイツ軍によるユダヤ人の迫害が始まります。
当時、ドイツはヒトラー率いるナチス党が支配しており、ナチスはユダヤ人根絶を掲げ、徹底的な迫害と虐殺を行っていました。
フランス、オランダもドイツに占領され、逃げ場を失った多くのユダヤ人たちは、日本を経由してソ連に渡ろうと考え、1940年(昭和15年)7月18日の早朝に、杉原の勤める日本領事館に押しかけます。
それを見てすぐさま杉原は外務省に問い合わせ、ビザ発行の許可を得ようとしましたが、当時の日本はドイツ、イタリアとの日独伊三国同盟締結に向けて動き出しており、ドイツ軍を刺激したくないとの理由から発行の許可をしませんでした。
それでも、杉原は食い下がり、ビザの発行許可を得ようとしますが、政府はそれを認めず、それどころか杉原にリトアニアからの退去命令を出してきます。
政府の命令と助けを求めるユダヤ人の間で、杉原は一晩悩み抜き、ついに独断でビザを発行することを決意。
そこから8月31日にリトアニアを退去するまでの約1ヶ月の間、杉原は寝る間も惜しんでビザを発行し続け、最終的に約6000人ものユダヤ人をリトアニアから脱出させることに成功しました。
この時発行されたビザは「命のビザ」と呼ばれ、後に世界中の人々から称賛を受けることになったのです。
commons.wikimedia.org/public domain/杉原領事代理による手書きのビザ
杉原千畝のその後
リトアニアを退去した後、杉原はドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニア、ブカレストと各地の日本領事館を転々とし、1945年(昭和20年)に終戦を迎えると当時勤めていたブカレストの日本公使館でソ連軍に一家共々身柄を拘束され、ソ連にある収容所に送られます。
そして1946年(昭和21年)に収容所に来訪したソ連軍将校によって直ちに日本に帰還するように言われ、モスクワやウラジオストクを経て1947年(昭和22年)4月に日本へ帰国し、その年の6月に長年勤めた外務省を依願退職しました。
その後、義理の妹と三男が次々と他界し、杉原は不幸に見舞われますが、語学力を活かして東京PXの日本総支配人や貿易商社、ニコライ学院教授、NHK国際局に勤めたあと、1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ事務所長としてロシアに渡り、1964年(昭和39年)に蝶理へ勤務、1965年(昭和40年)からは国際交易モスクワ支店代表などを勤め、1975年(昭和50年)に日本へ帰国しました。
その10年後の1985年(昭和60年)にイスラエル政府から多くのユダヤ人を救った功績を称えられ、日本人では唯一にして初の「ヤド・バジェム賞(諸国民の中の正義の人賞)」を受賞し、自分と同じく多くのユダヤ人の命を救ったドイツの実業家、オスカー・シンドラーになぞらえて「日本のシンドラー」と呼ばれるようになりました。
その翌年の1986年(昭和61年)7月31日に杉原は永眠し、86年の人生に幕を下ろします。
しかし、杉原の死後も命を救われたユダヤ人たちは、彼を英雄として称え、今でもその子孫たちから感謝の言葉が贈られています。
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