グループリーグ第一戦
徳川家康VS朝倉義景
姉川の戦い
前評判は、徳川よりも高い兵力(ディフェンダー)を持つ朝倉が優勢と考えられていたが、朝倉軍の監督、朝倉義景が支持を出さずにベンチで棒立ち。
試合の様子さえ見ていない監督に、選手は無策、無気力で挑む他なく、徳川三河の絶対エース本多忠勝をはじめとする優秀なフォワード陣の活躍により勝利を飾った。
グループリーグ第二戦
徳川家康VS武田信玄
三方ヶ原の戦い
徳川家康「試合がはじまる前から既に向こうの策に乗せられていましたよ。人生最大の敗退です。」
後に徳川がこう語るようにこの試合は武田軍のあまりに一方的な試合となった。
中学生とプロの試合ほどの圧倒的な差で敗北した徳川家康は、この敗北を忘れまいと、その落胆した自分自身を絵にして戒め、生涯この絵を大切にしたという。
グループリーグ第三戦
徳川家康VS武田勝頼
長篠の戦い
試合開始前、控え選手とも呼べる足軽の鳥居強右衛門の活躍により、選手たちは大いに奮い立つ。
彼の男気溢れる活躍は後世まで引き継がれるものとなった。
試合は武田軍お得意の騎馬戦術に対して、当時最新の鉄砲戦術により見事に徳川軍(織田軍との連合)が勝利。
長篠城へ徳川軍と織田軍の援軍がくることを伝えに帰ってきた伝令役の鳥居強右衛門。武田軍に拘束されてしまい、「援軍がこない。故に長篠城を明け渡せ。」と伝えるよう武田軍に迫られたが、「2,3日で援軍はくる!」と大声で叫び、武田軍に殺されたのであった。
織田軍まさかの自殺点
三方原の戦いの惨敗が響き、決勝トーナメント進出は得失点差にもつれ込まれた徳川であった。
しかし、毛利軍と備中高松城で試合を行っていた織田軍はこの戦でディフェンダーの明智光秀が痛恨のオウンゴールを決めてしまい、攻守ともに国内最強クラスと呼ばれた織田軍がまさかの劇的な敗退をきした。
これにより、得失点差で徳川軍が決勝トーナメントに進出することとなる。
決勝トーナメント初戦
徳川家康VS北条氏直
天正壬午の乱
出典:odanobu.com
織田軍がまさかの敗退という波乱のなか行われたこの戦い。両者一方も譲らず、0-0のままpK戦へと持ち込まれた。結果、徳川軍が5点(領土獲得)を上げ、見事1回戦を突破した。
決勝トーナメント2回戦
徳川家康VS豊臣秀吉
小牧・長久手の戦い
お互いが体力を削りながらもなかなか得点の入らない均衡した試合となった。
1点を取った徳川であったが、後半ロスタイムに徳川側の織田信雄が退場し、まさかの1点を返されることとなる。
結果引き分けのままPK戦にまでもつれ込み、豊臣秀吉の病死もあった徳川が準決勝にコマを進むこととなった。
決勝トーナメント準決勝
徳川家康VS石田三成
関ヶ原の戦い
ここで優勝候補の2組が激突することとなる。この試合が実質的な決勝戦ではないかとも噂されており、準決勝でありながら「天下分け目の戦い」と呼ばれている。
この試合は地の利などの点で石田軍が優勢と考えられていたが、徳川軍は事前に石田軍のディフェンダー小早川秀秋を買収。
結果、小早川秀秋の裏切りもあり、石田軍はまさかの大敗をきすこととなった。
決勝トーナメント決勝
徳川家康VS豊臣秀頼
大阪の陣
前半戦(大阪冬の陣)では豊臣軍の強固な大阪城に切り込むことができず、0-0で折り返したが、後半(大阪夏の陣)では豊臣軍監督の豊臣秀頼の統率力のなさが仇となり、ディフェンダーのモチベーションが一気に低下。結果、徳川家康が「三日分の腰兵糧でよい」と部下に語ったように、後半戦開始早々から大量得点を決め、勝利を決定的なものにしたように思えた。
しかし豊臣軍のFW真田幸村は徳川軍の大量得点により意気消沈する他の選手とは裏腹に果敢にゴールを狙いにいき、「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、徳川方、半分敗北」とも称される活躍を見せた。
結果的には真田幸村の猛追もあったものの、徳川軍の大量得点が上回り、徳川軍が天下統一を成し遂げたのであった。
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