1. 東京大空襲
68年前の東京大空襲。連夜空襲警報が鳴り響き男手のない我家は防空壕が掘れず外に出て様子を伺っていた。当夜の米軍の爆音は半端でなく不気味だった。翌朝トタン板から首を出して辺りを見ると思っていたよりも人影はなかった。ただ一寸歩くとそこいら中に黒焦げの死体が並んでいて前に進めな地獄絵。
— 内海桂子 (@utumikeiko) March 9, 2013
2. 8月6日
残念ながら昭和20年8月6日は何をしていたか記憶にない。この時期度重なる空襲に疲れていたが私は連日のように軍事慰問に出かけていた。広島に新型爆弾が落ちて物凄い数の死者が出たと聞いたのは数日後でそれも噂話程度に耳に入ってくる程度。とんでもない事態が起こったと知るのはかなり後だった。
— 内海桂子 (@utumikeiko) August 6, 2017
3. 相手を知る
広島に新型爆弾が落とされて甚大な数の人命がなくなったというニュースは聞いたがすぐにはどれ位の被害なのかは想像すらできなかった。B29を実際見た時に世の中にこんな大きな飛行機があるんだと仰天させられたので米国のやることは計り知れない規模なんだろうなと、とてもかなう相手でないと薄々。
— 内海桂子 (@utumikeiko) August 6, 2016
4. 終戦
終戦の日我々芸人6人は軍隊慰問の為朝常磐線で水戸に向かった。この日の正午に玉音放送がある事は知らなかった。お昼過ぎに着いて部隊がひっくり返っていて初めて大変なことになったと知る。帰りの列車になんとか乗ったがいつまでたっても進まない。ようやく着いた上野駅が明るく一気に正気に戻った。
— 内海桂子 (@utumikeiko) August 15, 2017
5. 今を生きるために
突然爆弾が降ってきて大変な事態になるとは現実的に考えはしないが万が一の事が生じたらどうする位の知識は持っていたい。お隣の韓国ではその時は地下に避難しなさいと公示してその避難先の看板も掲示しているとか。という事は我々もそうすればいいのかと思うが公はどう考えているのか知るすべがない。
— 内海桂子 (@utumikeiko) August 9, 2017
6. 慣れてしまう怖さ
なんとなく戦があちこちで起きていて毎日その報道を耳にしているとついつい慣れっこになっている自分が怖い。まさかと思っていてもなにかしらの言い訳を作って好きな事をやるのが権力者の常でそれが選挙で受かった人だとやった結果がでるまで文句はいえない。というのが今日の民主主義なのか理解難解。
— 内海桂子 (@utumikeiko) April 23, 2017
7. デビュー
戦前の話と聞いただけで遠い昔と思われるでしょうが私達には自分の人生の一部だから実感として覚えている事が多い。昭和11年の2.26でモノを言う兵隊が出てきてから次の昭和12年には日支事変が起こり軍隊の行動が巷にもわかってきた。でも戦争の匂いはない。私は昭和13年に漫才デビューした。
— 内海桂子 (@utumikeiko) February 26, 2017
スポンサーリンク
スポンサーリンク
この世代の方がTwitterで発信してくださるって貴重ですね。
たくさんの人が平和とか、今の情勢とかに関心を持ってくれるきっかけになればいいな。
私の母と師匠は同じ歳。母も生前よく話していました。花火を見に連れて行った時は「焼夷弾が落ちてくる時を思い出すからもういいわ」と言ってそれからは行きませんでした。