今回はそんな西郷隆盛の生涯、功績をもとに「現代に蘇ったらどうなっちゃうの?」を妄想していきましょう。
出典:国立国会図書館『西郷隆盛|現代日本の歴史上の人物の肖像画』
下級武士から明治維新の主導者、そして反逆者へ…?
文政11年(1828年)、西郷隆盛は薩摩国鹿児島城下、下加治屋町にて生まれます。父は薩摩藩士の西郷吉兵衛。下級武士であったため知行は少なく、幼少から貧しい暮らしを強いられたといいます。
そんな西郷が薩摩藩主・島津斉彬に取り立てられるのが安政元年(1854年)。農村の徴税などを担っていた西郷は、農民たちの声を藩の重役に伝えるため、たびたび意見書を提出していました。斉彬はこの意見書を見て西郷を気に入り、江戸の参勤交代に同行させるのです。
二度の自殺未遂と島流し
安政5年(1858年)、幕府が外国船来航と将軍継嗣問題で揺れる最中、島津斉彬は亡くなってしまいます。斉彬を敬愛してやまない西郷隆盛は、この時期に二度の自殺未遂を行いました。一度目は斉彬の後追い。二度目は自殺を止めてくれた京都の僧・月照に藩から処刑命令がくだり、その責任を取るために。
結局は一命を取り留めますが、幕府が危険視していた攘夷派(外国排斥の考えをもつ派閥)の月照を庇ったことで、追求は免れず、藩は西郷を奄美大島に隠居させます。そして文久2年(1862年)には新しい主君・島津久光との衝突により、さらに南の徳之島、沖永良部島まで島流しにされてしまうのです。
身近な人を相次いでなくした経験や、島での監禁生活は、西郷の精神力をより強靭に育てたのではないでしょうか。
藩への復帰と薩長同盟
元治元年(1864年)、藩士たちの人望により、処遇を見直された西郷隆盛は島での生活を終え、薩摩藩へと舞い戻ります。
このとき京都では、過激な譲位活動をしていた長州藩を排斥する気運となっていました。これを受けて「禁門の変」では西郷が薩摩藩の指揮官となり、長州藩を京都から追い払います。のちの長州征伐においても、幕府側の参謀役として従軍。
しかし「日本はひとつにならなければいけない」とする幕臣・勝海舟などの影響から、諸藩を除け者にしようとする幕府の姿勢を疑問視するように。そして慶應2年(1866年)、坂本龍馬を介し、長州藩士の木戸孝允と会談のうえ薩長同盟を結ぶのです。こうして時代の流れは倒幕へと向かっていきます。
幕府から明治政府へ
慶應3年(1867年)、西郷隆盛らは朝廷の岩倉具視を懐柔し、「王政復古の大号令」を発令。天皇親政を掲げた新政府を成立させ、幕府に官職や所領の返上を要求します。
事態は戊辰戦争へと発展。鳥羽伏見の戦いを経て、西郷は江戸を一斉攻撃する手はずを整えていました。しかしこの攻撃は行われず、西郷は、将軍・徳川慶喜の命で交渉役にあてられた勝海舟と会談のうえ、「江戸城無血開城」を成立させます。こうして幕府は事実上解散となり、政権は新政府のものとなるのです。
その後、抵抗する旧幕臣との戊辰戦争が終結すると、西郷は新政府にて参議、陸軍近衛都督などの要職を歴任しました。しかし朝鮮への使節派遣を巡って岩倉具視らと衝突し、政府を辞してしまいます。
故郷へ戻った西郷は、明治10年(1877年)に政府に不満をもつ士族を束ねて挙兵。「西南戦争」が勃発します。そしてこの戦争で政府軍に追い詰められ、自刃によってその生涯を終えるのです。
幕末の動乱を抑え、明治維新の立役者となった西郷が、どうしてこんな事件を起こしてしまったのか?次項ではその背景に迫ります。
日本史上最大の内乱『西南戦争』
明治維新を成したものの、最後は「西南戦争」を起こし、逆賊となってしまった西郷隆盛。西郷といえば英雄のイメージが強いですし、せっかく成立した政府に仇をなす行動を疑問に思う人も多いはずです。いったい当時の鹿児島では、何が起こっていたというのでしょう?
『西南戦争』で何が起きた?
明治10年(1877年)、西郷隆盛は鹿児島の不平士族たちを束ね、政府の拠点である熊本城へと攻め寄せます。しかし最新鋭の武器を擁する政府に苦戦を強いられ、結局は熊本城を落とせず。
そこから激戦となった「田原坂の戦い」を始め、南九州の各地で政府軍と転戦。最終的には城山に追い詰められる形で、自刃することを選びます。
どうしてこんなことになってしまったのか?
明治時代が訪れ、明治政府が行った政策は「廃藩置県」「徴兵令」「廃刀令」など、武士階級の特権を奪うものばかりでした。これは武士が再び台頭し、維新前のように日本の勢力が分断されてしまうことを、政府が嫌ったためです。
西郷はこれらの政策に反対していませんでしたが、旧藩士たちの不満は募る一方。政府の武器庫を襲撃する事態にまで発展し、収拾がつかなくなってしまいます。西郷はこのように士族たちを暴発させてしまった責任をとるため、反乱軍の指揮を執ったとされているのです。
そんな西郷の座右の銘は「敬天愛人」。
道は天地自然の未知なる故、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修する克己をもって終始せよ。己に勝つ極功は「意なし、必なし、固なし、我なし」と伝えり。
という名言を残しています。
運命は天に任せ、ただ人を愛する。不平士族の想いを汲んだ行動に帰結していますね。
『西南戦争』の歴史への影響
西郷隆盛は逆賊となってしまいましたが、その人望から名誉回復を望む者がたくさんいました。これによって明治22年(1889年)には西南戦争の罪が許され、正三位の位階に列せられています。
このことをきっかけに銅像建立の計画も立ち上がり、明治31年(1898年)12月18日、上野恩賜公園にて西郷隆盛像が公表されました。建立に際しては宮内省からも下賜金が出され、そのほか全国から2万5千件にも及ぶ寄付金が寄せられたといいます。
上野の西郷隆盛像といえば、犬を連れていることが特徴ですよね。これは西郷が狩りに連れ歩いていた愛犬「ツン」をイメージしたもの。
西郷は無類の犬好きで、鹿児島に戻ってからは20匹近い犬を飼っていたという話もあるのです。軍服ではなく着物姿になっているのは、そんな西郷の愛すべき私生活の様子を投影したためだといわれています。
ちなみに西郷は大の写真嫌いで生前の写真が一枚もなかったため、銅像を作る際も人からの意見や、イメージで書かれた肖像画を頼りにするほかありませんでした。そのため完成した当初は親族から「こげな人じゃなか」などという声が寄せられたといいますよ。
このほか鹿児島市、霧島市にも像が作られていたり、島流しに遭った沖永良部島では獄中の姿が像にされていたり。今も西郷隆盛は日本各地で世の行く末を見守っています。
人を愛し、多くの人に愛された西郷。続いては彼が現代に蘇ったらどうなるのかに迫りましょう!
もしも西郷隆盛がテレビ出演したら?
ムツゴロウ王国みたいになってる
多いときには20匹近くも犬を飼っていたという愛犬家の西郷隆盛。そういう人、現代にもいますよね。そう、ムツゴロウさんです。
きっと西郷が現代に生きていたら、「犬まみれの家がある!」といってテレビで特集を組まれているはず。ちなみに西郷は犬を愛しすぎて、ご飯に自分の好物でもあるウナギを食べさせていたなんて話も。20匹もいたら家計が崩壊しますね。
ニュースで騒がれる
先日未明、日本刀を所持して散歩していた男、西郷隆盛(49歳)が、銃刀法違反の疑いで連行されました。
男は警察の調べに対し、「政府は武士の誇りまで取り上げるつもりか!」などと発言している模様。なお近隣住民には狩猟犬を連れて狩りを行う姿も目撃されており、鳥獣保護法違反の疑いでも調査が進められています。
もしも西郷隆盛と同じ学校だったら?
集合写真に写らない
クラスメイトの西郷隆盛くんは、うちの学校の七不思議のひとつとなっている。
僕は彼と3年間同じクラスだが、集合写真に写っているのを一度も見たことがない。それどころか郊外学習や修学旅行などで班ごとに写す写真にも、西郷くんは絶対に写っていないのだ。生徒たちのあいだでは、実は西郷くんはこの世に存在しないのではないかと、密かに噂されている…。
教室にいないことが多い
同じクラスの西郷隆盛くんは、授業中、教室にいないことがなぜか多い。サボってるのか?保健室で休んでるのか?いや、どちらでもない。西郷くんはちゃんと授業を受けているんだ。一人別の教室に移されて…。
西郷くんが移される教室の距離は、日に日にクラスから遠のいていく。最南端の島まで流される日も遠くはないだろう。
学内クーデターが起こる
幕末の時代、王政復古のクーデターを巻き起こした西郷隆盛。学校においても教育方針に疑問を抱くことがあれば、校長先生を擁立したクーデターを起こすかもしれません。職員室を無血開城させられないよう、先生たちはよく注意しておきましょう。
でも、西郷は鹿児島で私学校を運営していたり、島流しにあった先で読み書きを教えていたりと、先生としても経験豊富なんですよ!職権交代も悪くないかも…?
現代に蘇った西郷隆盛!?
西郷どん(鹿児島市観光PRキャラクター)
鹿児島市明治維新PRキャラクターの
西郷どんくんのことを、
たびたび見つめていた啓太くん☺️なにか気になるポイントがあったのか、ゆるキャラが好きなのか…😂笑
この優しい表情は「癒し」でしかない( ´∀`)🍀✨☁︎ pic.twitter.com/janCbDaj4b— かりん🍒 (@Karin0028Machi) July 30, 2018
ゆるキャラブームに乗っ取り、鹿児島市が打ち出したPRキャラクターは「西郷どん」。設定は西郷隆盛に憧れる男の子だといいます。ちなみに同じ鹿児島の薩摩川内市のPRキャラクターは、愛犬の「西郷つん」。西郷隆盛が今も鹿児島県民に愛されていることが伝わってきますね。
勝元盛次(ラスト サムライ)
2003年のアメリカ映画『ラスト サムライ』に登場する勝元盛次は、西郷隆盛がモデルではないかといわれています。明治維新が成され、近代化を推し進めた政府と対立し、その死をもって日本人が忘れてはいけない"武士道精神"を思い出させる。勝元を演じた渡辺謙さんの名を世界に知らしめた作品です。
たとえ相手が上司でも、我を突き通す西郷隆盛!
西郷隆盛が現代に蘇ったとしたら、持ち前の我の強さでいろいろとおもしろい騒動を巻き起こしてくれそうです。
出世のきっかけも上司に意見したことからですし、島流しに遭ったのも上司と対立したから。自分が正しいと思ったら、相手が誰であろうと突き進む人なんです。ちょっと癖はあるけど、友達になったら退屈しないタイプですよね。
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