明治の訪れとともに、新時代の改革を担った伊藤博文が、もしも現代に蘇ったら?その生涯や功績をもとに妄想していきましょう!
海外渡航の経験を活かし、日本の政治制度の礎を築いた初代首相
天保12年(1841年)、伊藤博文は周防国熊毛郡束荷村(現・山口県光市)にて、農民の子として生まれます。もともとは林という苗字でしたが、9歳のころ、父親が長州藩士・伊藤氏の養子となったため改称しました。
17歳になると、吉田松陰の松下村塾に入塾。高杉晋作や久坂玄瑞、木戸孝允らとともに、尊王攘夷の思想を学んでいきます。
松陰からは「才覚は未熟な面もあるが、実直なところがいい」と評価されていたようですよ。博文は身分の低さゆえにこれまで学を積んでこれなかったものの、その実直さを武器に、以降さまざまなことを吸収していったのでしょうね。
その後は、攘夷派と対立していた幕臣・長井雅楽の暗殺計画、イギリス公使館の焼き討ちなど、尊王攘夷活動に積極的に参加していきました。
転機となったロンドン留学
「日本人は一致団結して外国の敵を追い払うべきだ!」
松陰のもと、博文が身につけたそんな思想をくつがえしたのが、藩命を受けてのロンドン留学でした。
文久3年(1863年)、博文は井上馨など、長州藩の同志らとともにロンドンへ密航。現地で勉学に励み、数ヶ月のあいだに英語を習得します。同時に西洋の先進的な文化を目の当たりにし、これまで信じてきた攘夷論が無謀であると痛感するのです。
何を隠そう、このとき博文の留学が数ヶ月で終わっているのも、長州藩の過激な攘夷活動を止めるためでした。そう、博文が渡航して間もなく、長州藩は関門海峡を通行した外国船を砲撃。アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国連合を相手にする「下関戦争」へと事態を発展させていたのです。
結局、戦争を止めることは叶わず、長州藩は大敗を喫してしまいます。ただ、この敗戦で長州藩は攘夷論の無謀さに気付き、新たな政府主導のもと富国強兵を推し進めるため、倒幕へと論を傾けていくこととなりました。
このあと幕府の長州征討を受け、一時は幕府恭順の意向が強まる場面も。しかし博文や高杉晋作が率いた「功山寺挙兵」によって幕府恭順派は鎮圧され、時局は幕末の維新へと進んでいきます。
海外視察と議院内閣制の導入
慶応4年(1868年)に明治政府が成立すると、博文は外国事務掛、参与などの要職を歴任しました。
明治4年(1871年)には、「岩倉使節団」の副使として、岩倉具視、大久保利通らと、欧米諸国を視察。西洋の政治制度導入の必要性を感じた博文は、明治15年(1882年)からさらにドイツやオーストリアに出向き、近代憲法を学びます。
そして明治18年(1885年)になると、国内に内閣制度を導入し、自身が初代内閣総理大臣に就任するのです。同時に大日本帝国憲法の公布、国会開設の指揮を執り、国内に立憲政治の仕組みを確立していきました。
その後、博文は4度の首相就任を経験。日露戦争後の明治38年(1905年)からは韓国統監となり、韓国の統治にもあたりました。しかし、このときの政策が現地民の反感を買い、明治42年(1909年)、ハルビン駅にて暗殺され、生涯を終えることとなります。
日本の新体制を築いた『大日本帝国憲法の制定』
伊藤博文の一番の功績として挙げられるのが、欧米諸国を手本とした「大日本帝国憲法の制定」でしょう。明治期の日本の生まれ変わりに際し、憲法の存在は欠かせないものでした。ここでは、その意義や制定の経緯について詳しくみていきます。
『大日本帝国憲法の制定』で何が起きた?
江戸時代の日本では、幕府の下に250以上の藩が設けられ、それぞれの統治は各藩主に委ねられていました。明治維新によって大きく変わったことは、この藩制が廃止され、天皇の直下にある明治政府が全国を直接統治するようになったことです。
となると、国民や政府、天皇の権利のバランスをとるために、国の決まりを設ける必要が出てきます。これによって考えられたのが、大日本帝国憲法の制定でした。
伊藤博文はこの憲法制定に際し、明治15年(1882年)にドイツへ渡り、現地の政治学者らとともに学を修めます。
当時、ドイツは皇帝・ヴィルヘルム1世の主権をもとに帝国統一を果たしていました。博文はこの状況を、天皇に主権が戻った日本の現状に似ていると感じ、ドイツの憲法を手本にしようと考えたのです。
博文が帰国すると、明治19年(1886年)から憲法草案の作成が行われ、明治21年(1888年)には、草案をもとに審議を行う枢密院を創設。翌年には憲法公布となり、明治23年(1890年)の第一回帝国議会開設に伴い、大日本帝国憲法が施行される運びとなりました。
『大日本帝国憲法の制定』の歴史への影響
大日本帝国憲法の制定により、日本は近代的な政治体制を有する国へと生まれ変わりました。当時、アジアには憲法をもとに政治を行う国が存在せず、日本がその第一人者となったのです。
この事実は国内の近代化を促すとともに、欧米諸国に日本という国の存在を認めさせました。そしてこのあと、日清、日露戦争を制した日本は一躍先進国の仲間入りを果たすこととなるのです。
ただし、大日本帝国憲法には、のちの第二次世界大戦下で問題となる大きな欠点がひとつありました。陸海軍に直接指示を出せるのは天皇だけであり、内閣には指揮権がない。日本が戦争に深入りしてしまったのは、この決まりによって政府が軍部を抑制しきれなかったためでした。
とはいえ、日本の近代化に欠かせない要素となった大日本帝国憲法。制定の主導者となった伊藤博文はその功績を称えられ、昭和38年(1963年)からはお札の肖像画にも選ばれています。
さて、そんな感じで明治期の新体制を担った伊藤博文が、もし現代に蘇ったら?どんな活躍を見せてくれるのか妄想していきましょう!
もしも伊藤博文がYouTuberだったら?
シンプルに炎上しがち
伊藤博文がYouTuberを始めると聞いて、斬新な企画いっぱい考えそうだよなーとか思ってたんだけど…実際は炎上案件だらけで笑えない。
「公使館焼き討ちしてみた」「パスポートなしでイギリス行ってみた」「日本の法律変えてみた」
こうみてみると、幕末の志士たちってほとんど炎上系ですよね。
編集のクオリティがハンパない
動画のクオリティを競わせたら、伊藤博文に適うYouTuberはそうそういないはず。動画に限らずそうなのですが、博文は新しいことに取り組んだときの吸収率がハンパないんです。
英語は数ヶ月でマスター。難しいドイツの法律だって、数年で日本に反映していますから!動画の編集技術も、数ヶ月でトップクラスまで極めてくれるはずです。
…ただ、内容が炎上案件なので、すぐにBANされちゃうんですけど。
ノウハウ系動画が投げやり
彗星のごとく現れたYouTuber・伊藤博文。動画タイトルのインパクトから注目されていた彼ですが…活動していくにつれ、徐々に人気も落ち目になってきています。彼が上げる動画は「ドイツ憲法の覚え方」「数ヶ月で英語をマスターする方法」といったノウハウ系がメイン。ただ、結論がいつも同じなんです。
「現地に行けば覚えられます!」
…って、ノウハウになってないよ!
もしも伊藤博文がコンビニ店員だったら?
お会計が切ない
コンビニでお会計をしたとき、悲しそうに肩を落としている店員がいたら、それは伊藤博文かもしれません。なぜって、あなたが渡したその千円に印刷されているのは、きっと野口英世ですよね。博文が使われていたのは夏目漱石を挟んで二世代前。
お客が千円札を渡すたび、彼は自身がオワコンである現実を突きつけられるのです…。
ホットスナックが激アツ
近所のコンビニに伊藤博文が勤め始めて以来、レジ周りのホットッスナックの充実っぷりがすごい。イギリス名物のフィッシュアンドチップスに、本場ドイツ仕込みのソーセージもその場で焼いてくれる。お供にどうぞといわんばかりに、ビールまで出てくる次第だ。
さすがは明治期に海外の制度を導入しまくった政治家。ジャンルが変わってもスタイルは変わらない!
でも…ここ、コンビニですよ?屋台かなんかと勘違いしてない?
伊藤博文にまつわる現代の事象
伊藤博文記念公園
日本の初代内閣総理大臣、伊藤博文公。維新志士、長州ファイブなどエピソード満載の生涯を、彼の生まれ故郷・光市の伊藤公資料館(伊藤公記念公園)でたどることができます。園内には茅葺きの復元生家や旧伊藤博文邸も隣接。豊かな自然を満喫しながら散策し、幕末~明治の空気を感じてきました。 pic.twitter.com/eCKmqXvwHw
— おいでませ山口へ (@oidemase_info) February 9, 2021
山口県光市にある「伊藤博文記念公園」。藁ぶき屋根の旧伊藤邸や資料館を満喫できるだけでなく、四季折々の自然を感じられるスポットとしても人気です。2006年には山口県によって「伊藤公の森」という遊歩道も新たに整備され、見どころがどんどん増えています!
大河ドラマ『花燃ゆ』の伊藤博文がはまり役
劇団ひとり演ずる少年時代の伊藤博文初代総理大臣の登場で、大河ドラマ花燃ゆが、俄然面白くなる予感がする… pic.twitter.com/FoNoxiALIo
— クレイジー★マサ (@masa_ri) March 3, 2015
2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』では、お笑い芸人の劇団ひとりさんが伊藤博文役で登場。これがけっこうなはまり役で評判でした!実際の博文も彼のような愛嬌のある顔立ちをしていますよね。松下村塾での日々を中心に描かれるというのがまたミソです。
未開の地にどんどん飛び込んだ伊藤博文!その心意気を見習いたい
海外での経験をどんどん取り入れて、明治期の日本を一新していった伊藤博文。現代に彼が蘇ったら、これまた斬新なアイデアをたくさん生み出してくれそうです。
でも、博文の時代にはギリギリオッケーでも、現代じゃ犯罪になっちゃうことがしばしばある点には注意が必要ですね。それほどに破天荒だったからこそ、改革を起こせたともいえますが…見習うのはやっぱり、心意気だけにしておきましょう!
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