もし、井伊直弼が現代に蘇ったら?その生涯と功績から妄想を繰り広げていきます。一般論では悪役ですが、実情は…。
出典:世田谷区ホームページ『井伊直弼画像(いいなおすけがぞう)』
実は明君!大老になるまでと、暗殺に至るまでの軌跡
文化12年(1815年)、井伊直弼は第13代彦根藩主・井伊直正の十四男として近江・彦根城にて生まれます。十四男ってどんだけ兄弟いるんだよ…という感じですよね。案の定、直弼はその出自から家督を継ぐことができない子として育てられました。
17歳になると、出世の道が閉ざされたその境遇を鑑み、直弼は自ら「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた小屋に籠るようになります。自身を埋もれた存在だと皮肉ったそのネーミングには、「出世の道がないのなら世間からは離れ、ただ修養に励むのみ」という意志が込められていました。
直弼は以降、なんと32歳になるまでの15年間、この埋木舎にて、昼夜を忘れて学問や武芸に邁進していきます。
そのころ、直弼が特に熱心に取り組んだのが茶道でした。当時の茶道は武士たちが遊興に浸るための派手なものとなっていましたが、直弼はわびを大切にする石州流の流れを汲み、精神修養に重きを置いた一派を起こすのです。
有名な「一期一会」という言葉は、直弼が茶会の心得を説いた『茶湯一会集』によって広められたもの。茶会の客人に対し、誠心誠意向き合うことの大切さが表されています。
名君と呼ばれた彦根藩主時代
弘化3年(1846年)のこと、出世の道をとっくに諦めていた直弼のもとに、思わぬ機会が舞い込みます。14代藩主・井伊直亮の養子となっていた兄・直元が亡くなり、代わりの後継者として直弼に声がかかったのです。
兄が亡くなったことはラッキーとは言い難いですが、ここで直弼に白羽の矢が立ったのは、修養に励む勤勉な姿が功を奏した結果といえます。
そして嘉永3年(1850年)に直亮が亡くなると、直弼は35歳にして彦根藩主の座を相続するにいたるのです。藩主としての直弼の働きは触れられることが少ないですが、非常に優れた政策を行ったため、現代でも彦根の名君として称えられているんですよ。
具体的には…
・前藩主・直亮の評判が悪かったため、彼の遺命として藩民に15万両を配布。直亮の悪評を払拭した・藩士たちに積極的に意見を求め、優れた意見を出した者には出世の道を与えた
・藩全域を直弼自らが巡回して周り、藩民の声を藩政に反映していった
という感じ。よく言われる悪人のイメージとはまったく違いますよね!
大老就任・世紀の大弾圧「安政の大獄」へ
嘉永6年(1853年)になると、ペリーが浦賀沖に来航。海外列強の脅威が迫る一大事に、国内の情勢は一気に揺らぎ始めます。
井伊家は旧来から徳川家に仕えていた譜代大名だったため、直弼もその責任感から、幕政に対し積極的に意見していきました。
ちなみに井伊家が徳川家の家臣となったきっかけは、天正3年(1575年)、当主の井伊直虎が、浜松城主をしていた徳川家康のもとへ養子の直政を仕えさせたことが始まり。この直虎という人は、実は井伊家で唯一の女当主で、当時存続の危機にあった井伊家を救ったことでも知られているんですよ。
安政2年(1855年)には、日米修好通商条約の締結のため、老中・堀田正睦が天皇への勅許を求めにいきます。しかしこの時期に台頭しはじめた攘夷派によって朝廷工作が行われていたため、勅許の取り付けに失敗。堀田は朝廷に歩み寄ろうと考え、攘夷派の松平慶永を、幕府の名誉職・大老に推します。
しかし松平は徳川一門という家格で、本来は幕政に関わらない地位の人物でした。13代将軍・徳川家定はその伝統を重んじ、「大老は譜代の井伊直弼が適任だ」としました。こうして直弼が大老に就任し、幕政の主導権を握るにいたります。
出典:茨城県立歴史館『V 徳川慶喜と戊辰戦争[茨城県立歴史館]』
大老となった直弼は、家定と同じく徳川家の伝統を重んじ、当時宗家の血筋にもっとも近いとされた、紀伊藩主・徳川慶福(のちの家茂)を将軍後継者に決定。攘夷派の面々は、水戸藩主・徳川斉昭の子息・一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を推していたため、この決定は大きな反感を呼ぶこととなりました。
また日米修好通商条約に関しても、結局天皇の勅許を得る前に独断で締結してしまったため、直弼への非難は最高潮を迎えます。これを幕政の危機と捉えた直弼は、攘夷派を徹底して弾圧。これが安政5年(1858年)から翌年にかけて行われた「安政の大獄」です。
攘夷派の面々はこの弾圧をもってさらに反発。安政7年(1860年)3月3日、江戸城桜田門外にて水戸脱藩士17名、土佐脱藩士1名が直弼を襲撃する事態にまでいたります。ここで直弼はその生涯を閉じることとなるのです。(桜田門外の変)。
優れた指導者でありながら、井伊直弼が悪人のように語られるのはこの「安政の大獄」や「桜田門外の変」のイメージによるものです。そこにはいったいどのような事情があったのか、次項ではそのいきさつに迫りましょう。
被害者数100人を超える大弾圧「安政の大獄」
「安政の大獄」は、井伊直弼が幕府の権威を独占しようと悪逆非道な処置を行った大事件として知られています。しかしここまで読み進めてくれた人なら、直弼がただ権力のために弾圧を行ったわけではないこともわかるはずですよね。そこにはやはり、幕府の代表としてやむを得ない事情がありました。
『安政の大獄』で何が起きた?
安政5年(1858年)6月、井伊直弼は外交官の岩瀬忠震、井上清直を通じ、米国総領事タウンゼント・ハリスと交渉のうえ、日米修好通商条約を締結します。孝明天皇は条約締結に反対しており、この決定は天皇の勅許を得ずに行われたものでした。
実のところ、直弼は岩瀬らに対し「天皇に説明する必要がある」とし、条約締結を引き延ばすように指示していました。しかしこのとき、ハリスはイギリス・フランスと中国の戦争が停戦したことを強調。「ヨーロッパの列強が次は日本にやってくる!早くアメリカと手を結んだ方がいい」と、条約の締結を急かしたのです。
出典:米国議会図書館『Hon.Townsend Harris』
この脅しに屈した岩瀬らは、直弼に対し「本当にどうしようもない場合は、条約を締結してもよい」という条件を取り付けさせ、すぐに条約を締結してしまいます。
すると、無許可の条約締結に反発した攘夷派の面々が朝廷へ通じ、孝明天皇による幕府への非難文『戊午の密勅』の発布へとこぎつけるのです。戊午の密勅は攘夷派の代表格であった水戸藩に預けられ、全国の諸藩への公布が命じられます。
天皇から直々に幕府への非難文がばら撒かれてしまうとなれば、それこそ政権転覆の危機です。これに際して直弼が攘夷派への取り調べを行うと、案の定、諸藩が朝廷と通じ、倒幕を企てる動きがあったことが判明します。
ここから直弼は徳川家を守るため、攘夷派を弾圧。これによって捕縛された人物は攘夷派に加担した公家にまで及び、100名以上が死罪や謹慎などの刑に処されるのです。
『安政の大獄』の歴史への影響
安政の大獄の仕上げとして、直弼は水戸藩にわたっていた戊午の密勅を、孝明天皇に返納することを求めます。天皇に対しては老中・間部詮勝を遣いに出して、条約締結の事情を説明し、了解を取り付けるにいたっていました。
しかし水戸藩士たちは当然のごとく、戊午の密勅の返納に反感を覚えます。そこから藩士たちの決起が行われ、安政7年(1860年)3月、直弼が襲撃される「桜田門外の変」へと発展してしまうのです。
その後、桜田門外の変は幕府の名誉職が暗殺された一大事として、その権威を地に落とします。この事実は長州藩や薩摩藩の台頭を促し、慶應3年(1868年)、西郷隆盛や大久保利通らによって倒幕が成される遠因となりました。
このように、優れた政治能力をもちながら時代の荒波に飲まれ、悲劇の最期を遂げてしまった井伊直弼。続いては彼が現代に蘇ったらどんな活躍をしてくれるかを見ていきましょう!
もしも井伊直弼と同じ会社だったら?
追い越されても疎まないで!
17歳から32歳までの15年間、世間との関りを一切断って修養に励んだ井伊直弼。彼が現代の会社に入ったとしたら、それこそ昼夜を忘れて仕事に心血を注ぐことでしょう。直弼ほど「これ!」と決めた物事に打ち込める人はそういませんから、あなたのことも追い越してあっという間に昇進していくはずです。
だからといって、うっとおしい新人だといじめちゃダメですよ?彼が権力をもったとき、いつ「令和の大獄」が断行されるかわかったもんじゃありません…。
出世を手助けするのがおすすめ
あなたが井伊直弼と同僚だとしたら、仕事に熱中する彼をぜひサポートしましょう。彦根藩主時代の直弼は、藩士たちの意見を積極的に採用した名君。彼が出世していけば、あなた自身も働きやすい体制が整えられていくに違いありません!藩民にお金を配ったように、臨時ボーナスが出ることも!?
ただ、志の高さゆえに敵も作りやすい直弼。現世でも通勤中に暗殺されてしまう…?
もしも井伊直弼がゲーマーだったら?
多分その道で食っていける
あらゆる学問や武芸に励み、茶道に関しては一流派まで起こしてしまうほどの井伊直弼。彼がゲームにハマったとしたら、プロゲーマークラスまで極めちゃうに違いありません。
茶道において、ほかの武士たちは遊興に浸っていましたが、直弼はそのなかに精神修養を見出しました。彼にかかればゲームだって、娯楽の域を脱して新たな哲学に昇華されるはずです。
『信長の野望』がめっちゃ上手い
コーエーテクモゲームスから発売されている『信長の野望』は、大名となって自領を統治しながら、敵武将と戦って天下統一を目指すゲーム。実際に彦根藩を治め、名君とされていた直弼なら、ゲームでも豊かな国を育めそうですよね!
あ…でも、直弼の時代は領土を広げるための戦なんてないから、戦のやり方はわからないか…。もし徳川家と戦になんてなったら、「恐れ多い!」とか言って白旗上げそう。
『マリオカート』は下手
井伊直弼が『マリオカート』をやったとしたら、スタート地点から微動だにしないはずです。なぜって?彼の普段の移動手段知ってます?
桜田門外の変で暗殺されたときも、彼は家臣たちが運ぶ駕籠に乗って江戸城を目指していたんです。直弼にとって乗り物は自分で走らせるものではなく、運んでもらうものなんですよ。ゲームの中では暗殺はされないでしょうけど、亀の甲羅はぶつけられそう。
キャラクターとして現代に蘇っている井伊直弼
カモンちゃん(滋賀大学公式キャラクター)
滋賀大学公式キャラクター「カモンちゃん」は、井伊直弼がモデル。2008年に彦根市で開催された「井伊直弼と開国150年祭」にて、学生によって考案されました。カモンちゃんというネーミングは、直弼の官位である「掃部頭(かもんのかみ)」と、「滋賀大学にCome on!」の意味が込められているのだとか。
井伊直弼(幕末ROCK)
PSP、PSVITA専用ソフト『幕末ROCK』シリーズの井伊直弼は、天下太平のために手段を選ばない完璧主義者。眼帯を携えた佇まいにも、非情な性格が見え隠れします。徳川慶喜を敬愛しているという、史実にはない設定も。慶喜が将軍になるまで生きていれば、実際もそうだったかも…?
井伊直弼は現代ならもっと活躍できる!
「安政の大獄」の影響で悪人に思われがちだけど、実はめちゃくちゃ優れた指導者である井伊直弼。平和な現代なら、蘇った彼もその能力をもっと有意義に使えそうです。クリーンな優良企業を作り上げるか、凄腕のゲームプレイヤーとなるか、その資質がどの分野で活かされるのか注目ですね!
そして最後に…「井伊直弼のこと誤解してた!」って人が、この記事で認識を改めてくれたなら何より幸いです!