この記事では、徳川慶喜の生前の様子から、「彼がもし現代に蘇ったら…?」を妄想していきます。
出典:茨城県立歴史館『V 徳川慶喜と戊辰戦争[茨城県立歴史館]』
家康の再来と呼ばれた才児は、最後の征夷大将軍に
天保8年(1837年)、徳川慶喜は第9代水戸藩主・徳川斉昭の七男として、江戸の水戸藩邸にて誕生しました。
幼少は父斉昭の意向により水戸藩で過ごし、藩校・弘道館にて学びます。慶喜は兄弟でも傑出した才覚の持ち主とされ、長男・慶篤に次ぐ跡取り候補に考えられるほどでした。
そんな慶喜の噂は12代将軍・徳川家慶の知るところとなり、11歳のころ、家慶の願いで御三卿・一橋家を相続する身となります。
安政4年(1857年)になると、13代将軍・徳川家定の病気に際し将軍継嗣問題が発生。慶喜は老中・阿部正弘や、薩摩藩主・島津斉彬らに担がれ、次期将軍候補となります。
しかしこのころに阿部や島津は相次いで没し、紀州藩主・徳川慶福を候補に推していた井伊直弼が大老に就任。幕政は井伊の思うままに動かされ、14代将軍は慶福(徳川家茂に改名)が継承することになります。
一方の慶喜は、幕府が天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を結んだことで、井伊に反感を覚え対立。井伊による反対勢力の弾圧「安政の大獄」に伴い、謹慎を命じられる身となってしまうのでした。
幕府の権威失墜に揺らぐ政権
万延元年(1860年)、徳川慶喜の謹慎は解かれ、続く文久2年(1862年)には将軍後見職に任じられることとなります。これは将軍・家茂がまだ幼く、代わって幕府を主導する者が必要だったため。つまり慶喜は実質将軍のような地位に列せられるわけです。
ただこのころ、万延元年(1860年)に井伊直弼が暗殺された影響で、幕府の権威は地に落ちていました。時代は「幕府よりも朝廷」という流れになり、朝廷を味方につけるべく、諸藩が京都に出入りするようになっていたのです。長州藩・薩摩藩による倒幕の声もこのころから大きくなっていきます。
しかし慶喜はこの逆境をはねのけ、元治元年(1864年)に禁裏御守衛総督に就任。朝廷の守備を任され、幕府の権威を見事に再興してみせます。その後、慶應2年(1866年)に徳川家茂が病没すると、第15代将軍として、徳川宗家を継ぐ身となりました。
大政奉還と王政復古の大号令
徳川慶喜によって幕府の権威は回復に向かいましたが、薩長の倒幕の動きは変わらず続いていました。慶應3年(1867年)、慶喜はこれを抑えるため、朝廷に政権を返上する「大政奉還」を行います。薩長藩は幕府から政権を返上させることを大義名分にしていましたから、これにて倒幕の理由を失うことになるのです。
ただ、これはあくまで慶喜の作戦であり、名目上政権を手放したといっても、今後、長く政治を行ってきた幕府を朝廷が頼ることは明白でした。つまり大政奉還後も、政治の主導権は実質、慶喜の手中にあるのと同じなのです。
慶喜の頭の回転の速さに、なす術なしと思われた薩長藩でしたが、ここでも彼らは諦めず、最後の強硬手段に出ます。薩長藩は朝廷にてクーデターを起こし、天皇親政を掲げる「王政復古の大号令」を発令。新政府を成立させ、幕府に領地や官職の返還を要求するのです。
政府はまだ幼い明治天皇を擁立しており、逆らえば、幕府は天皇に異を成す朝敵となってしまいます。これを嫌った慶喜は慶應4年(1868年)、江戸城を政府に明け渡して謹慎。以後、水戸、駿府(静岡県)と居を移し、政治には関わりのない余生を過ごしていくこととなります。
このように、最後は戦わずして表舞台を去った慶喜。次項ではその行動の真意に迫ります。
江戸100万人の命を守った『江戸城無血開城』
慶應4年(1868年)、徳川慶喜は「江戸城無血開城」を行い、新政府へと新たな時代のバトンを託しました。
旧幕府軍はこのあとも戊辰戦争を続けており、大将でありながら真っ先に白旗を上げた慶喜は「腰抜け」と揶揄されることがしばしばあります。しかし実際のところ、これは慶喜の信念に基づく行動にほかならないのです。
『江戸城無血開城』で何が起きた?
慶應4年(1868年)1月に勃発した「鳥羽伏見の戦い」において、徳川慶喜は抗戦する幕府軍を尻目に、わずかな側近だけを連れて江戸へと逃亡を図ります。江戸では徳川家の菩提寺「寛永寺」にて謹慎生活を送るなか、当主の座を養子の田安亀之助に継承。
そして新政府との交渉を勝海舟に委ね、4月11日、西郷隆盛と勝の会談を経て、誰も血を流すことなく、江戸城の明け渡しが成立することとなります。これによって慶喜は史上最後の征夷大将軍となり、260年続いた江戸幕府の歴史に終止符を打ったのです。
『江戸城無血開城』の歴史への影響
出典:公益財団法人 渋沢栄一記念財団『『徳川慶喜公伝』と渋沢栄一|史料館だより|渋沢史料館』
徳川慶喜が江戸城無血開城を行ったのは、新政府との争いにより、江戸に住む約100万人の市民に被害が及ぶことを避けるためでした。
その後、慶喜は水戸、駿府と移り住み、旧幕臣との関りを一切断った隠居生活を送っていきます。これに関しても、自らが身を引くことで、時代の転換期における被害者を最小限に留めようとしたためだという話です。
たしかに彼がまた表舞台に姿を現すようなことがあれば、旧幕臣は奮起し、新政府との争いがさらに激化していたかもしれません。慶喜はたとえ腰抜けと呼ばれようとも、自身の信念を貫き国民を守ったのです。
旧幕臣である渋沢栄一は、大正7年(1918年)に発表された著書『徳川慶喜公伝』にて、その功績を後世に伝えました。
「徳川慶喜は、侮辱されても国のために命を以て顧みざる、偉大なる精神の持ち主」
今になってその評価が徐々に見直されつつある徳川慶喜。続いては彼がもし、現代に蘇ったらどんな活躍を見せてくれるのかを想像していきましょう!
もしも徳川慶喜がクラスメイトだったら?
鬼ごっこが強すぎる
うちのクラスでは、休み時間に鬼ごっこをするのが流行りなのですが、徳川慶喜くんは絶対に仲間に入れちゃダメだって、みんな口を揃えて言うんです。そう、鳥羽伏見の戦いから真っ先に逃げ出した彼のこと、逃げ足が速く、まず捕まえるのに一苦労。そして万が一捕まったとしても、彼には奥の手があります。
その名も「大政奉還」。鬼の権利返上しますって…そんなのあり?
自宅を無血開城
あるとき、同じクラスの徳川慶喜くんの家に遊びに行ったんです。それがなんの手違いか、僕は今、慶喜くんの家に住んでいます。あの日、慶喜くんの家の玄関を開けたらそこに立っていたのは勝海舟という人でした。彼は慶喜くんからの伝言で、僕にこう伝えてきたのです。
「なんか、無血開城するらしいっすよ」
出席日数が足りない
いつも休みがちな徳川慶喜くんに、僕はノートを届けに行く係。なんでも彼は出席日数が足りず、留年しまくっているみたい。今年で謹慎30年目になるんだとか。肩書は高校生だけど、もう立派なおっさんです。一日も早い社会復帰を…。
もしも徳川慶喜が社長だったら?
多分会社がなくなる
徳川将軍隋一の切れ者と呼ばれる徳川慶喜。彼が社長に就任したからには、会社も急成長を遂げていくことでしょう。しかし…社員のみなさんは転職の準備を始めることをお勧めします。だって慶喜は260年の歴史をもつ江戸幕府を終わらせた男です。どんな大企業も彼の手にかかれば…。
もしも徳川慶喜が鬼殺隊員だったら?
技の名前だけカッコイイ
2019年のアニメ化を経て、今や知らない人はいないほどのブームを巻き起こした『鬼滅の刃』。もし徳川慶喜が作中に登場するとしたら、彼が用いるのは「将軍の呼吸」です。
将軍の呼吸・一の型「大政奉還」!二の型「江戸城無血開城」!響きは強そうだけど、全部逃げるための技ですからね。
キャラクターとして現代に蘇っている徳川慶喜
徳川慶喜(幕末Rock)
幕末Rock
徳川慶喜
Happybirthday!!!🎂 pic.twitter.com/AxzmtmtGwb
— リドル (@kisholovekenich) September 28, 2019
PlayStastionPortable、Vita専用のゲームソフト『幕末Rockシリーズ』に登場する徳川慶喜は、天才ヴォーカリスト。史実では対立していた井伊直弼もこの作品では忠誠を誓い、坂本龍馬からは「ヨッシー」の愛称で親しまれています。
徳川慶喜(龍が如くONLINE 黄龍放浪記)
徳川慶喜(龍が如くのすがた) pic.twitter.com/qKJdKZ7kVp
— 有吾 (@0YuA0) February 9, 2017
SEGAが手掛けるスマホアプリ『龍が如くONLINE 黄龍放浪記』では、入手難易度の高いSSRキャラとして徳川慶喜が登場。江戸の市民を戦火から守った慶喜らしく、回復系のスキルで活躍します。
「腰抜け」なんていうけど、徳川慶喜の政治手腕はチート級!
徳川慶喜が現代に蘇ったとしたら、いろんな意味でチートな技をたくさん使ってきそうです。そう、幕末の世においても慶喜の政治手腕がチート級だったから、薩長藩も武力倒幕に頼らざるを得ませんでした。知れば知るほど、頭脳ひとつで対抗した慶喜のすごさを実感させられますよね。
もし生まれ変わりらしき人を見かけたとしても、決して「腰抜け」呼ばわりはしないように!
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