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大河ドラマゆかりの地、富士宮市の究極の聖地巡礼。時代を超え、肌で感じる歴史と自然

日本の象徴であり、信仰の対象と芸術の源泉である富士山。
その麓に位置する富士宮市は、自然と歴史を実際に肌で感じることができる街です。

ライターのゴトウは前回、富士宮市の自然や富士山の雄大さを登山を通して体感しました。

前回の記事はこちら『富士山で昔、修行として登られていたルート「村山道」を気合で登ってみた

そして今回は富士宮市の歴史を肌で感じるべく、ゴトウは取材へ向かいました!



「ということでやってきました2回目の富士宮!スタート地点は前回と同じ、富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)です。早速、歴史スポット巡りといきますか」

一言に歴史といっても、途方もない年月とエピソードが存在しています。今回はその中でも大河ドラマゆかりの「鎌倉コース」と「戦国コース」の2コースに分けて紹介していこうと思います。

【鎌倉コース】巻狩りの痕跡、曽我兄弟の仇討ち

鎌倉時代と聞いて何を思い浮かべますか?
ゴトウは学校で習った「1192(いいくに)作ろう、鎌倉幕府」などの語呂合わせが真っ先に思い浮かんできます。そんな鎌倉時代の富士宮市は源頼朝(みなもとのよりとも)が巻狩り(まきがり)を行った地として有名です。

巻狩りとは、軍事訓練のために行われていた狩り行事のことで、武将が獲物を四方から囲むように追い詰め、射止める狩猟方法です。

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)

全国に約1300社ある浅間神社の総本宮です。
世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉-」の価値を証明する構成資産の一つ。 現在の富士山本宮浅間大社の社殿は徳川家康が寄進したものです。


源頼朝は巻狩りの際に、この浅間大社に流鏑馬を奉納したとされています。これが始まりとなり、現在でも毎年5月には流鏑馬まつりが行われています。

「ここは何回来ても綺麗ですね。そして見てください、この水の透明度!あ、フォアグラいますフォアグラ!」

富士山の湧き水が溜まっており、その水温は一年を通して14℃前後で安定しています。また、平安時代から禊場(みそぎば)としても使われていたという。


「ちなみにこの湧き水は、富士山に降った雪や水が約20年の時間をかけて濾過されているんですよね!前回教えてもらいました」

白糸ノ滝(しらいとのたき)

富士宮が誇る名瀑「白糸ノ滝(しらいとのたき)」。
一般的な川の水が崖を落ちる滝とは違い、富士山の雪解け水などが地層の境目から湧き出して形成されています。


「絶景過ぎる!神様、これマイ〇ラと同じ感覚で狙って作ったでしょ」

源頼朝は富士の巻狩りで白糸ノ滝を訪れた際、その美しさを「この上に いかなる姫や おわすらん おだまき流す 白糸の滝」という和歌を詠んだと伝わります。
※和歌の要約「糸玉から流れ落ちるように滝の水が流れている。滝の上ではどのような姫が糸を紡いでいるのだろう」

お鬢水(おびんみず)



「うわ、ここ水面の揺らめきが全然ないな。これ、飛び込んでいいんですかね?」


※当然飛び込んではいけません。

こちらはお鬢水(おびんみず)と呼ばれるスポットです。
源頼朝が富士の巻狩りの際、ここに立ち寄ったといわれています。
また、水面の揺らめきがほとんどないため、鏡代わりに髪のほつれを直したというエピソードが名づけの由来とされています。

音止の滝(おとどめのたき)

皆さんは日本三大仇討ちのひとつである「曽我兄弟の仇討ち」というお話をご存知でしょうか?
冒頭でも説明したように、源頼朝が富士の麓にて巻狩りを行いました。その際、兄の曽我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)と弟の曽我五郎時致(そがごろうときむね)が父の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を討ったというお話です。

音止の滝付近は、曽我兄弟の仇討ちが行われた場所として様々な逸話が残っています。
その後、江戸時代頃に人形浄瑠璃や歌舞伎を通して「曽我兄弟の仇討ち」が人気となり、知名度を爆発的に上げていきました。

音止の滝という名前の由来として、曽我兄弟が画像の岩場(曽我兄弟の隠れ岩)で工藤祐経の討ち入りについての密議を行っていたという。
しかし、滝の音に声がかき消され相談が進まず、兄弟が嘆くと、滝の音がぴたり止まり、相談が終わると再び滝の音がとどろいたという伝説に由来しています。

曽我八幡宮



「曽我八幡宮という名前の通り、曽我兄弟が関係しているってことだろうなぁ。俺が有名になれば地元にゴトウ八幡宮を建てることも可能ということか・・・?」

父の仇討ちを果たした曽我兄弟の孝行心に感動した源頼朝が、畠山重忠(はたけやましげただ)に命じ、地域の住民に兄弟を祀らせたのがはじまりとされています。

鷲鷹八幡宮(わしたかはちまんぐう)



「ここ、なんだか厳かな感じがするなぁ・・・。絶対にふざけられない雰囲気だ」

曽我兄弟の討ち入りの際、兄の曽我十郎祐成は斬り合いの末に亡くなり、弟の曽我五郎時致も捕えられてしまいます。
そして、弟の曽我五郎時致は処刑されてしまいます。その後、鷲や鷹が兄弟の死体を啄み、その肉片をこの地に落としたため建立されたといわれています。

陣馬の滝(じんばのたき)

陣馬という言葉には「陣取っている場所」という意味があり、巻狩りの際に源頼朝が付近に一夜の陣を張ったことから名づけられました。



「・・・我、天啓を得たり」

ここには太鼓石という逸話が残っています。
上記で説明したように、巻狩りを行うにあたり源頼朝がこの付近にて陣を張っていました。
その際、夜中にドンドコと太鼓をたたいているような音が響き渡ります。家臣に命令して調べさせたところ、滝つぼにある石を発見。その石はぽっかりと真ん中に空洞が空いており、水が当たって音が響いていたのでした。




「これが太鼓石か。多分当時の源頼朝もこれやってただろうね」

このような形の石を溶岩樹型(ようがんじゅけい)といいます。
富士山の噴火により溶岩が流れ出し、木を飲み込んでいきます。木を飲み込んだ形で溶岩が冷やされて固まり、中の木は燃え尽きて灰になることでこのような形になるとのこと。

狩宿の下馬ザクラ・井出家の館(かりやどのげばざくら・いでけのやかた)

源頼朝が巻狩りを行った際、ここに陣取ったといいます。
敷地内に植えられた桜は、日本五大桜の一つ「狩宿の下馬ザクラ(かりやどのげばざくら)」。

源頼朝が富士の巻狩りの際、馬から降りた所とされたことが名前の由来。また、この桜の枝に馬をつないだという逸話から、別名「駒止めの桜」とも呼ばれています。
古くから桜の名所として知られていたことから、多くの偉人や俳人、画家が立ち寄り、作品を生み出したそう。また、最後の将軍である徳川慶喜もこの桜について俳句を詠んでいます。

井出館は安永5年(1776年)と寛政9年(1797年)に焼失してしまったという記録が残っており、現存する長屋門は江戸時代後期に建てられた貴重な建物です。

富士の巻狩りに曽我兄弟の仇討ち。
それに付随した逸話が数多く富士宮の地には残っており、まさに聖地巡礼スポットといえるでしょう。

お昼は、富士宮やきそば!
富士宮市では各所で美味しい富士宮やきそばが食べられます。



【戦国コース】徳川家康ら名将達が訪れた街、富士宮!

これまで紹介してきた富士の巻狩りや曽我兄弟の仇討ちの時代背景は、主に鎌倉時代付近のお話でした。
その後、時代は進み戦国時代と呼ばれる1400年中期~1600年前期の富士宮市は、武田氏・今川氏・北条市の3勢力が入り乱れた場所だったのです。

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)

鎌倉コースでも登場した富士山本宮浅間大社ですが、戦国コースでも再登場です!

実は富士山本宮浅間大社は歴史上でも名高い、あの徳川家康と深い関係があるのです。
慶長5年(1600年)に起こった天下分け目の大戦「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は、そのお礼として本殿、拝殿、楼門などを建てたといいます。


本殿などには天皇家、徳川家、豊臣家の家紋が装飾されていました。

また、安永8年(1779年)には徳川幕府が富士山8合目より上を、富士山本宮浅間大社の境内と認定しました。現在でもその取り決めは変わっておらず、その後は紆余曲折ありましたが富士山本宮浅間大社の所有地になっています。

徳川家康だけでなく、実は武田信玄にもゆかりがある浅間大社。境内にあるしだれ桜は、信玄公の寄進とされ、「信玄桜(しんげんざくら)」の名で親しまれています。(現在の桜は二代目)

富士見石(ふじみいし)

富士山本宮浅間大社からすぐの場所に、富士見石と呼ばれるスポットがあります。なんと織田信長がこの地を訪れた際、この石に座って富士山を眺めたという逸話が残っているのです。



「猿、暖めた草履をよこせ」

天正10年(1582年)に武田氏に勝利した織田信長が甲州から凱旋を行いました。その際に、この石に腰かけて富士山を眺めたと言い伝えられています。

神田市神社(かんだいちじんじゃ)

神田市神社は「市神さん」と呼ばれる商いの神様です。
戦国時代、浅間大社付近では市場が開かれており、この地域を支配していた今川氏は市場の平和保障のため楽市令(通称「富士大宮楽市令」)を、浅間大社の大宮司に発給しました。その市でもこの神社のように、市神様が祀られていたのかもしれません。




「この狛犬、小さくてめっちゃかわいい。というか、この大きさで細かく作られ過ぎでしょ!」

神田蔵屋敷稲荷神社(かんだくらやしきいなりじんじゃ)

当時は大宮城の兵糧(お米などの税金)を納めている蔵がこの地に建っていたことが名前の由来になっており、商売繁盛の神様を祀っています。

戦国時代、周辺には大宮城という城館があり、浅間大社・大宮司富士氏の拠点となっていました。
武田氏が今川氏を攻めた際、富士氏は大宮城に籠城して今川方として戦いましたが、信玄公が自ら指揮をとった攻撃によって降伏、開城しました。
その後、武田氏により城の増改築が行われましたが、その後の戦いの中で焼かれてしまい現在は残っていません。

北山本門寺(きたやまほんもんじ)

富士宮市北山にある、日蓮宗の七大本山のうちの一つです。
永仁6年(1298年)に日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の直弟子である日興上人(にっこうしょうにん)が開創しました。

また、徳川家康が武田氏と戦う際に北山本門寺に立ち寄ったといわれています。その際の住職は、当時88歳の日出(にっしゅつ)という名の住職でした。
徳川家康はその年齢や名前がとても縁起が良いと感じ、お守りをいただけないかと相談したといいます。

その際、日蓮大聖人が書いた曼荼羅(まんだら)をお守りとして渡しました。
戦場で掲げていた際、武田軍の鉄砲の弾が掲げていた棒と曼荼羅にあたり、軌道が変わって徳川家康は一命を取り留めたそう。

その逸話から「鉄砲曼荼羅(てっぽうまんだら)」と呼ばれ、現在でも宝物庫にて厳重に保管されています。

また、徳川家康はこの曼荼羅のお礼に何が欲しいか日出に聞いたところ、日出が周辺の水不足解消のための用水開削を願ったため、徳川家康は家臣に命じて本門寺用水を開かせました。
この用水は、現在は北山用水と呼ばれ存在しています。

人穴富士講遺跡(ひとあなふじこういせき)

人穴富士講遺跡とは、富士講の祖である長谷川角行(はせがわかくぎょう)が修行したといわれる場所です。
また、人穴と呼ばれる約83mの洞窟があり、中にはコノハナノサクヤヒメが祀られています。


洞窟内は現在、一般開放されていないのですが、今回は特別に許可をもらって洞窟内へ入ることができました。


「これ、マジで行きます・・・?」

恐る恐る進むゴトウ。


「誇張なしに何も見えない。僕の視界は暗闇、ただそれだけです」

長谷川角行は人穴にて1000日間の厳しい修行の末に、仙元大日神(せんげんだいにちしん)より長谷川東覚(はせがわとうかく)の名を授かったとのこと。
長谷川角行は、後に人穴で亡くなったとされており、それ以来この場所は富士講の浄土とされています。

また、徳川家康が織田信長と武田氏を攻めた際に、武田軍から逃げる途中で人穴を発見し、長谷川角行に匿われて一命を取り留めたという伝承があります。
徳川家康はそのお礼に、人穴村に課せられた税金を免除したとも伝わっています。

富士宮市の歴史を肌で感じてみませんか?

富士山の麓の街、富士宮市で、鎌倉・戦国時代の痕跡や逸話を巡りました。

また、富士山の水で育てられた野菜、魚なども絶品の一言に尽きます。


今回の取材は、富士宮観光ガイドボランティアの会の皆さんがご協力くださいました。ボランティアの方による歴史のエピソード解説やスポット紹介で、さらに観光が楽しめること間違いなし!

大河ドラマで登場する数々の名将を魅了してきた富士宮市にぜひ足を運んでみてください。

提供:富士宮市観光課

コメントする3

  1. GTO

    大変為になりました。大河ドラマがまた楽しみになりました!

  2. ららら♪

    半分くらいは見て歩きましたが
    もう少し歴史の勉強して行けば良かったです

  3. いちかわみずき

    まだ行けてないです…
    早く行きたい!

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