K.A.Z.isさんのご友人の言葉に、様々な人が意見をあげました。
アメリカ人の友人が『日本は反省中の人間は笑顔を見せても、自由にご飯を食べても、友人に会ってもいけないんだな。ふさぎこんで自殺するくらいまで叩かなきゃ納得しないのか?だけど自殺したら掌を返して可哀想と言う。正直、理解が及ばない。恐ろしすぎる。』って言ってた。
— K.A.Z.is じっくりコトコト煮込んだモヒカント (@ass_er) June 24, 2018
周囲が反省を強要する光景、程度の差はあれど一度は目にしたことがあると思います。
端的に言って、粘着質でしつこい。キチンと謝罪したらその一回でその話は終わりでいいじゃない。
— æøå (@cR4iPxyh2awhT5p) 2018年6月25日
日本に限った話ではないかもしれませんが、同調性を重んじる気質が、反省を促す「外野」の人々の意見を助長しているようにも感じます。
ほんとそれ…!これ日本人厳しいというよりゆとり無いだけと思う。自分の日常に満足してないから「よろしくない他人」を物差しにしたいので、這い上がって来られたくない。更に皆が批判してる事に合わせないとどう見られるか的な「同調性」。判定基準を低位に固定することで己の上昇も阻んでる、実は。
— 里芋万歳 (@satoimobanzai) 2018年6月26日
行き過ぎた正義は恐ろしいものかもしれません。
「いいか。世の中で最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ。悪には罪悪感という歯止めがあるが、正義には歯止めなんかない。だからいくらでも暴走する。過去に起きた戦争や大量虐殺も、たいていの場合、それが正義だと信じた連中の暴走が起こしたものだ」(『翼を持つ少女』)
— 小池一夫 (@koikekazuo) September 19, 2015
勿論、「決して許せないこと」もあるでしょう。しかし、寛容になって良い場合もあるのではないでしょうか。
河童の川流れ、猿も木から落ちる、弘法も筆の誤り…
これだけ誰にでもミスはあると言うことわざがあるのに、ミスを許せない余裕の無さがありますよね。
— 伊月 (@itsukitekina) 2018年6月26日
「反省」とは、一体なんでしょうか。以前もこんなツイートが話題になりました。
日本で「失敗したら反省しなさい」って言われたとき、たいていの人が求める「反省」って「失敗の原因を改善すること」じゃなくて「失敗して落ち込んでる様子を他の人に見てもらうこと」だったりするから困る。
— ツン (@YANPARARI_TSUN) April 19, 2014
過剰な反省を強要することは、「攻撃」に転じてしまいます。求めているものは、「反省」か「改善」か、自身も少し省みてみることが必要かもしれませんね。
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上辺だけしおらしくして、心で舌を出して笑っている輩と上辺は平然としていても心では
過ちから学ばんと苦悩している人を見分けられる眼を持ちたいものです。
とはいえ、如実にその後の言動に現れるものですが
反省とは個人的なことであって、他人に認めてもらうことではない。人が反省しているかどうか見極めようと思う他者の思いや気持ちが日本人に究極な反省の形に追いやってしまうのではないか。失敗したらそこから学んで前進すれば良いだけ。周りの人の失敗で迷惑を被ったのでれば、それを許せるかどうか、自の心の大きさを振り返ってみる方がよっぽど大切。
「反省とは個人的なこと」という言葉、その通りだと思います。
許せる心をもつことは大切ですね。
そういった意図が無いのは承知の上ですが、「許す」ことに関しても、「許さなくてはいけない」訳ではないとだけ、一言添えさせて頂きたいです。
「苦悩」を望むわけではありませんが、「学ぼう」としている意思は伝わってくるものだと思います。
本心も、どこかで滲み出してくるものですよね。