明治時代、自由民権運動を行い、国民主導の政治を実現した板垣退助。「板垣死すとも自由は死せず」の名言で覚えている人も多いはずです。

死さえも恐れない精力的な活動で、当時の政界に大変革を起こした彼が、もし現代に蘇ったら?その生涯と功績を辿り、妄想していきます。


出典:国立国会図書館『近世明石社信vol.2』

国民主導の政治を実現させた永遠のガキ大将

ここがポイント
幼い頃から気性が荒く喧嘩に明け暮れていた退助を引き立てたのは、その才覚を見抜いた土佐藩政務の吉田東洋だったワン!

天保8年(1837年)、板垣退助は高知城下にて誕生します。父の乾正成は知行300石の土佐藩士で、藩主の護衛などを任される職に就いていました。

それなりのエリート家系に生まれた退助。しかし彼自身は地元きっての悪ガキで、将来藩の要職に就くとは夢にも思わない幼少期を送っています。

悪友の後藤象二郎といつもつるみ、ケンカに明け暮れる日々。ただ母親のしつけから、弱い者いじめだけは絶対にしなかったという話です。ちょっと優しめのヤンキーだったわけですね。

気性の荒い退助は藩内でも衝突を起こすことが多く、始末書を書かされたり、謹慎を命じられたりすることも珍しくありませんでした。

しかし、素行の悪さからなかなか認められない退助の才能を見抜いた人が一人いました。土佐藩にて政務を行っていた吉田東洋です。吉田に引き立てられた退助は、免奉行、大目付など、藩でも重要な役職を与えられるまでに出世していきます。

戊辰戦争での活躍

ここがポイント
幕府に対して不満を抱いた退助は、坂本龍馬、西郷隆盛などとともに討幕のため奔走。王政復古の大号令を経て、戊辰戦争へとこぎつけるワン!

幕末の動乱において、土佐藩は幕府が主導権を握る公武合体路線に賛成の意向を示していました。

しかし、海外列強に屈して勝手に条約を結んでしまうなど、幕府の弱腰な姿勢に、退助は不満を抱きます。そして「幕府に政治を任せてはおけない!」と、藩論に背き、倒幕を志す尊王攘夷派へ歩み寄っていくのです。

同郷の中岡慎太郎坂本龍馬、薩摩藩の西郷隆盛らと共に奔走し、時局は慶応3年(1868年)の「王政復古の大号令」へ。明治政府が成立すると幕府は朝敵に仕立て上げられ、戊辰戦争へと発展していきます。

退助の奔走の甲斐もあって、このころには土佐藩の藩論も倒幕に傾いていました。退助は東山道先鋒総督府参謀に命じられ、土佐藩兵を率いて甲州勝沼の戦い会津戦争などで活躍。幕府を北海道まで追い詰め、明治政府を勝利に導く貢献をしました。

明治政府との決別

ここがポイント
欧米視察を行った結果「まず国力を蓄えるべき」とした岩倉使節団と、「朝鮮を支配下におくべき」とした退助との間で意見が割れ、退助は政府を辞したんだワン!

戊辰戦争終結後、その功績を買われた退助は明治4年(1871年)に明治政府の参与に任じられ、国の政治に携わる立場となります。このころ、政府の幹部であった岩倉具視大久保利通伊藤博文らは不平等条約改正のため、アメリカやヨーロッパを訪れており(岩倉使節団)、退助はその留守を任されていました。

そして岩倉らの留守中、残った要人たちで新たに掲げられたのが「征韓論」です。朝鮮がもし欧米諸国の植民地にされてしまったら、その次は日本に攻め込んでくるに違いない。そういった懸念から、早々に朝鮮を日本の支配下におき、欧米列強をけん制する必要があると退助らは考えたのです。

しかし明治6年(1873年)に帰国した岩倉使節団の幹部たちは、この征韓論に猛反対しました。欧米の視察で列強の強さを目の当たりにした彼らは、海外にアプローチするより国内の体制を整えるべきだと考えたのです。岩倉らは自身の権限でもって、有無を言わさず征韓論を中止。

退助はこれに反感を覚え、政府を辞して地元の高知へと帰ってしまうのです。同じように政府を後にした面々は計600人にも及び、影響力の大きさからこの出来事は「明治6年の政変」と呼ばれています。

「自由民権運動」へ

ここがポイント
政府を後にした退助は自由民権運動を起こし、政界は各政党が参政権を持つ現代の形にグッと近づいたんだワン!ちなみに大隈重信と退助がタッグを組んだ第一次大隈内閣は、二人の対立ですぐに瓦解してるワン。

政府を辞した板垣退助は、薩長閥に牛耳られている政治を変えようと「自由民権運動」を展開。立志社、自由党などの政党を結成し、国民の参政権を訴えかけます。その甲斐あって明治23年(1890年)に日本初の帝国議会が開かれる運びとなり、薩長閥以外の政党も参政権を得ることになりました。

そして明治31年(1898年)のこと、退助と同じく、政府を辞して政党を起こしていた大隈重信に大命が下り、第一次大隈内閣が成立。日本初の政党内閣が誕生するにいたります。退助は大隈内閣で内務大臣を務め、ふたりがタッグを組んだこの内閣は「隈板内閣(わいはんないかく)」の異名で呼ばれていました。

しかし、そもそも退助と大隈は対立関係にあったため内紛が絶えず、大隈内閣はわずか4か月で総辞職。これを機に退助も政界を離れることとなります。

晩年は政治に関わることもなくなりましたが、華族制度に問題を呈すなど、社会制度の改良運動に尽力しました。

次項では退助の代名詞でもある自由民権運動について詳しく解説します。

「板垣死すとも自由は死せず」の名言を生んだ『自由民権運動』

「板垣死すとも自由は死せず」。板垣退助のこの名言は、彼が政府を離れ、「自由民権運動」に取り組む最中に発せられた言葉です。自由民権運動とはなんなのか?そしてこの名言がどんなシチュエーションで生まれたのか、詳しくみていきましょう。

『自由民権運動』で何が起きた?

ここがポイント
有名な「板垣死すとも自由は死せず」は、演説中の退助が刃物で刺される事件の際に生まれたもの。原文はちょっと違かったり、本人が言ってない説もあるけど、この時、退助は刺されながらも犯人を撃退しており、実は刺殺されたわけではないんだワン!

明治6年(1873年)に政府を離れた板垣退助は、政権を薩長閥が牛耳っていることに対し、新たな政党を立ち上げ、薩長閥以外の国民も政治へ参加できるようにと働きかけました。

要するに政党というのは、薩長閥以外の政治家が集めた、参政権を訴える集団のこと。明治14年(1881年)に退助が結成した自由党などは政党の走りであり、それらを軸にした国民主導の政治を訴える運動を「自由民権運動」というのです。

当時は「自由は土佐の山間より」などと言われ、高知県は全国を巻き込む一大ムーブメントの中心地となっていました。

自由民権運動は大きな反響を呼び、明治15年(1882年)4月には岐阜で演説を行った退助が襲撃される事件まで発生しています。この事件で退助は刃物で刺されながらも犯人を撃退し、「我死するとも自由は死せん!」と言い放ったといいます。

このセリフが新聞などで広く報じられていくなかで「板垣死すとも自由は死せず」という、あの名言にすり替わってしまったのだとか。また、退助ではなく現場に居合わせた政党員が叫んだものという説もあり、実のところ真意は謎なんですよね。ほんとだったらちょっと残念かも…。

とはいえ、刃物を持っている犯人を素手で撃退してしまうあたり、さすが元ガキ大将って感じです。退助はケンカ好きだったのもそうですが、幼少から剣術や柔術を習い、その実力も達人の域だったといいますよ。

ちなみにその名言から、この事件が退助の死因だと思っている人も多いですが、彼はこのあと内務大臣などを務め、83歳まで生涯を全うしました。後述しますが、その功績によって当時のお札に肖像画が採用されているほどなんです。

『自由民権運動』の歴史への影響

退助の命すら顧みない尽力の甲斐あって、明治23年(1890年)には、日本初の帝国議会が開かれるにいたります。このとき、同時に大日本帝国憲法も発布されました。国会と憲法は、自由民権運動の賜物。退助が「憲政の父」と呼ばれているのはそのためです。

現在、日本が民主主義国家となり、国民の意志を汲んだ政治が行われているのは、板垣退助のおかげと言って過言ではありません。その功績から、昭和23年(1948年)には五十銭札、昭和28年(1953年)には百円札の肖像画にも採用されています。

さて、日本の政治体制を大きく変えた板垣退助が、現在に蘇ったとしたら、どんな活躍をしてくれるのでしょうか?続けて妄想していきましょう。

もしも板垣退助が部下だったら?

適度に難題を課すのが◎

板垣退助があなたの部下だったとしたら、ちょっと背伸びさせるぐらいの仕事を任せれば、抜群の能力を発揮するはずです。なにせ退助は根っからの負けず嫌い。幕末には藩論に反発して倒幕を志し、維新後は政府に反発して自由民権運動を展開。結局どっちも自分のやり方で理想を実現しているんですよね!

でもちょっと待てよ?意にそぐわないと会社もすぐに辞めてしまうかも?

営業には向かない

とっても革新的な政治家だった板垣退助。でも営業職を任せるのは実は不向きだと思うんです。だって…彼めっちゃケンカっ早いじゃないですか。日本初の政党内閣といわれた隈板内閣だって、内紛で4か月しかもたなかったし。

クライアントがちょっとでも気に食わなかったら、きっとガンとか飛ばしちゃうタイプですよ。ほら、元ヤンじゃないですか、彼。

早めにポストを譲るのが会社のため

もしあなたが板垣退助の上司だとしたら、むしろその地位を譲ったほうが会社は繁栄していくでしょう。「聞き捨てならん!俺だってけっこうやるんだぞ!」という声が聞こえてきそうですが、退助の求心力はきっと比になりません。

全国を巻き込むほどの政治運動を主導した人ですよ?彼が上に立てば会社は一気に活気づいて、革命的な事業を起こしていくと思うんです。

もしも板垣退助が映画俳優だったら?

第二のジャッキー・チェンになってる

板垣退助は、刃物を携えた犯罪者を素手で撃退してしまうほどの武闘派です。彼が映画俳優だとしたら、きっとスタントなしのアクションスターとして引っ張りだこになるでしょう。

テロリストと政治家が戦う映画とか、上映したらけっこう話題になりそう…。クライマックスの名言はやっぱり「板垣死すとも自由は死せず!」ですよね。

エキストラが務まらない

俳優って、駆け出しのころはだいたいエキストラから始めるものですよね。そう考えると、板垣退助は俳優のスタート地点にすら立てないのかもしれません。だって…教科書とかで彼の写真見たとき、思いませんでした?「いや!ヒゲ!ヒゲどうしたよ!」って。

退助がエキストラなんてやったら、ヒゲが気になりすぎて主役がかすんじゃいます。

板垣退助に関する現代の事象

自由民権記念館が『板垣退助伝記資料集』を刊行!

高知県の自由民権記念館が、2021年から約3年間かけて『板垣退助伝記資料集』全18巻を発売します。板垣退助だけで18巻もあるなんて、どんだけ濃い人生だったんだよと。このほか、常設展では自由民権運動でどんなことが行われていたのかを学ぶことができます。ファン必見です。

『八重の桜』の板垣退助がカッコイイ!

近年の作品でも、特に板垣退助の生き様がフィーチャーされているのは、2013年の大河ドラマ『八重の桜』。自由民権運動の動機なども語られます。演じるのは加藤雅也さん。ちょっとコワモテな表情がまた、ガキ大将の退助っぽくていい!

板垣退助は、持ち前の爆発力で現代でも活躍間違いなし!

政治家というとどこかお堅いイメージを抱きがち。しかし、板垣退助は「ケンカ上等!」って感じの、とっても豪快な政治家でした。現代に蘇ったとしても、持ち前の爆発力で活躍してくれそうです。

ひとつだけ助言するとしたら、芸人でも目指さない限り、そのヒゲはやめといたほうがいいですよ!あなたも退助の生まれ変わりに出会うことがあれば、ぜひ伝えてあげてください。