あの日、津波に飲み込まれ、無惨につぶされた一台のパトカー。ほとんど原型を留めないほどに破壊された車体、粉々に割れたフロントガラスは、凄まじい津波の衝撃を物語っています。
今月初めに投稿された慰霊碑を紹介するツイートは、13,000人を超える人々によって共有され、震災について改めて考えるきっかけを生みました。
当時、車内には増子洋一警視(当時41)と、佐藤雄太警部補(当時24)が乗っていました。その日彼らは非番でしたが、危機が刻一刻と迫るなかで、住民たちのために避難誘導を行っていたのです。2人が津波に飲み込まれたのは、その最中の出来事でした。
富岡町を津波が襲ってからしばらく、パトカーは同町沿岸部で見つかりましたが、増子さんの遺体が見つかったのはそれからおよそ1か月後。佐藤さんの行方は今もわかっていません。
パトカーがこの場所に設置されたのは今から2年半前の2015年3月。当初は廃棄の計画もありましたが、「地域を守った二人の勇敢な行動を、後世に伝えたい」という地域住民の強い要望と、県警・役場・博物館の尽力、そして遺族の協力によって保存と公開が決まりました。
パトカーを含む震災遺産の保全を主導した富岡町役場の門馬健さんは、当時の決定をこう振り返ります。「前が見えないどうしたらいいかわからない時期。プライベートな生活も、町政運営も、我々文化財行政もどうしたらいいかわからない時期に、町民の方も、県博も、我々も、何らかの善意で立ち上がろうと、『なにか自分たちで考えなきゃいけないね』と考えていた時期だったので、皆がおんなじ方向で考えられた時に力が生まれたのではないかと思っています」
保存作業を進めるなかで、思わぬ発見もありました。パトカー内部に入り込んだ土砂を洗い流す作業中、佐藤さんのものと思われるドライビンググローブが、偶然にも見つかったのです。後日、その報告を受けた佐藤さんのご両親は、手渡されたグローブを握りしめ「雄太のです」と涙を流しました。「あのままパトカーを廃棄していたら、グローブが見つかることはなかったかもしれません」門馬さんは感慨を込めてそう語ります。
震災の恐ろしさを今に伝える、富岡町の被災パトカー。公開については、「震災の傷を思い出させるべきではない」という反対意見もありました。たしかに、心の傷を癒すためには、忘れることも必要なのかもしれません。しかし、それでも、富岡町を守ろうとした2人の警察官の意志は、忘れてはなりません。
復興への道はこれからもまだまだ続きます。門馬さんは今後への決意を込めて、こんなメッセージを2人に送ります。「2人が守ろうと思ったものは守れなかったかもしれないけれど、その思いを繋ぐ町民はたくさんいて、その人たちと作っていく町、地域を見て欲しいと思います」
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大切なことと思います
殉職したお二人のご冥福と
残されたご家族の幸せをお祈りします
目を背けてはいけない事もあります。
傷は傷として忘れる事無く、未来に「事実」を伝える事は大事な事ではないでしょうか。
お二人に、敬礼。
とても素敵なパトカーですね。
住民のために、非番だったにもかかわらず、自分の命もかえりみず、誘導を行うその行動力と勇気。
とてもじゃないけど真似できません。
ご冥福をお祈りいたします
本当に素晴らしい信念をお持ちの警察官ですね。
昨今、不祥事ばかりがマスコミによって大きく取り上げられていますが、このような職務を全うされている方達の方が圧倒的に多いはず。
このような行動こそがマスコミに取り上げられるべき。
ご冥福をお祈りします。
お悔やみ申し上げます
復興が少しでも早く進むと良いですね。
そして忘れてはならない災害に、いつ来るかも分からない災害に備えて生きていきましょう。