そんな福沢諭吉が、現代に蘇ったとしたら?この記事では、福沢諭吉の生涯と逸話を紐解きます。そのうえで、彼が現代のさまざまなシチュエーションに存在したらどんな活躍をするのか考察していきましょう。
出典:慶應義塾福澤研究センター『概要|センター紹介|慶應義塾福澤研究センター』
下級武士から時代を担う啓蒙思想家へ
出典:東京大学史料編纂所『古写真データベース【検索結果詳細画面】』
天保5年(1835年)1月10日、福沢諭吉は豊前中津藩(現・大分県中津市)の下級武士・福沢百助の次男として、大阪の中津藩蔵屋敷にて生まれます。
父は博識な儒学者でもありましたが、下級武士の家格が祟って出世もままならず、諭吉が2歳のころに志半ばで他界。幼少より生活は貧しく、諭吉は内職で家計を助けるなか、家格ですべてが決まってしまう封建制度への反感を覚えていくこととなります。
諭吉はもともと勉学に熱心なタイプではありませんでしたが、14歳になり、漢学や儒学を学び始めると一気に才覚を露わにし始めます。そして19歳になると、長崎に遊学し蘭学を学ぶように。嘉永6年(1853年)のペリー来航を受け、日本ではオランダ砲術の需要が高まっていたためです。
その後は大阪にて、蘭方医・緒方洪庵の主宰する適塾に入門し、安政4年(1857年)には塾頭に。翌年には藩命が下り、江戸の築地鉄砲洲にて蘭学塾を主宰するようになりました。
諭吉の運命を変えた欧米諸国への渡航
江戸に赴任したことで、横浜のアメリカ人居留地を訪れる機会を得た諭吉。実はここで「蘭学だけではもう通用しない」と思い知らされる出来事が起こります。そう、アメリカ人には一切オランダ語が通じなかったのです。
それ以来、諭吉は英語を学ぶようになり、同時に欧米諸国への憧れを募らせていきます。
そして万延元年(1860年)、幕府の遣外使節に志願し、軍艦・咸臨丸に乗ってアメリカの地へ上陸するにいたるのです。以降、文久2年(1862年)にヨーロッパ6ヵ国、慶應3年(1867年)に再びアメリカへと、諭吉は計3回の海外渡航を経験することとなります。
この間、現地の文化や政治体制を詳しく記した『西洋事情』を執筆。幕府では外国方に列せられ、外交文書の翻訳などに従事しました。
日本の封建制度と違い、欧米ではとにかくよく学んだ者が台頭できる。この事実を目の当たりにした諭吉は以後、国内でそれを実践していこうとします。
慶應義塾と時事新報
慶應4年(1868年)、明治政府の成立に伴い幕府を辞した福沢諭吉は、鉄砲洲にあった塾を新銭座に移転。元号にちなみ「慶應義塾」と改名します。
政府から出仕の誘いも幾度となくありましたが、諭吉はこれをすべて断り、教育事業に尽力していくのです。明治23年(1890年)には大学部も設置され、以降、慶應義塾は生徒数1000人を超えるマンモス校へと成長していくこととなります。
このほか、明治15年(1882年)には日刊新聞『時事新報』を創刊。文明開化の遅れていた中国、韓国とは別の道を行くことを促す脱亜論を唱え、世情を湧かせます。その思想は明治27年(1894年)の日清戦争にも波及し、渋沢栄一、岩崎久弥、三井八郎右衛門らと共同で戦費支援にも尽力しました。
明治の世において、教育にも政治にも多大な影響を与えた福沢諭吉の思想。その集大成が今なお読み続けられる大作、『学問のすゝめ』です。次項ではこの名著の刊行について触れていきます。
歴史的名著『学問のすゝめ』を刊行
福沢諭吉は明治5年(1872年)~明治9年(1876年)にかけて、それまでの封建社会を真っ向から否定した名著『学問のすゝめ』を執筆しました。刊行から140年後の現代においても、一度は目を通しておくべきとされるこの書籍。いったい世間にどんな影響を与えたのでしょうか?
『学問のすゝめ』の刊行で何が起きた?
当時、日本人の常識となっていたのは、「生まれついた身分によって上下関係は決まっている」とする儒教の思想でした。しかし福沢諭吉は、現代においても訓示的に扱われるこの名言で『学問のすゝめ』を起筆します。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
この書籍は、日本人の知らない異国の価値観で、当時の人々に衝撃を与えました。人は生まれもって上下などなく、差が生まれるのは学問の有無によってのみ。よく学んだ者が台頭できる時代がやってくると、福沢諭吉はこの『学問のすゝめ』をもって宣言してみせたのです。
万人に通じるよう平易な表現で記され、同時に知識人たちにも時代を作っていく責任を問う。その内容は多くの人に受け入れられ、当時の国民の10分の1にも相当する340万部の売り上げを記録しました。慶應義塾が繫栄していったのも、この書籍によって学問を志す人が増えた結果だといえます。
『学問のすゝめ』の歴史への影響
明治政府が成立し、日本は近代化へと足を進めていました。しかしそれでも『学問のすゝめ』の内容は当時、完全には理解されない結果で終わっています。
福沢諭吉がこの書籍で訴えたのは国民主権でしたが、このころの国会が打ち立てたものは、天皇が統治権を有し、国民を従わせる天皇主権だったのです。そのため政府の要人と諭吉は衝突することとなり、『学問のすゝめ』は批判にもさらされました。
それから70年近くが経った1946年10月、第二次世界大戦後の日本において、日本国憲法が成立。諭吉の主張した国民主権の時代がやってくることとなります。
さて、こんな感じで、時代をめちゃくちゃ先読みしていた福沢諭吉がもし、現代に蘇ったらどうなるのでしょう?
もしも福沢諭吉がクラスメイトだったら?
組体操が成立しない
クラスメイトの福沢諭吉くんがペアになってから、運動会の組体操が億劫です。サボテンの演技で膝の上に乗ろうとすると「天は人の上に人を造らず!」とか言って跳ね除けてくるし、ピラミッドのときは「人の下にも人を造らず!」と言って乗ろうとしない。それって物理的な意味だったの…?
コミュニケーションが困難
あるときから、クラスメイトの福沢諭吉くんの様子が明らかにおかしい。金髪にカラコン、話しかけると返ってくるのは全部英語だ。「Yeah!This is escape Asia theory!」。…だ、脱亜論なのか?
なんかもう怖い…
こないだの脱亜論の話だけど、なんか別バージョンもあるらしくて、福沢諭吉くんは以前にも増しておかしくなってる。上半身裸で槍を常備。なんか仮面被ってるし…。それどこの部族なの?アジアじゃなきゃいいって話じゃないですよ?
もしも福沢諭吉が部下だったら?
重役出勤が許されない
部長になってからというもの、悠々自適に重役出勤してた俺だけど…最近は新入社員の福沢諭吉ってヤツがどうにもやっかいだ。ほかの社員より遅れて出勤しようものなら、すごい剣幕で怒鳴ってくる。どうやらヤツの信条は「天は人の上に人を造らず」とかなんとか。でも諭吉さん…上司にタメ口でキレるのは、なんか解釈間違ってますよね?
もしも福沢諭吉が総理大臣だったら?
日本からマンションがなくなる
先日、福沢諭吉首相が就任して以来、近隣のマンションが軒並み取り壊されていってます。新しく建つのは全部1階建ての平屋。なんでも新しく施行された「人の上に人を造らず法」で、人の上の階に住むのはダメらしいんです。どうでもいいけど、そんなことしてたら家建てる敷地足りないと思うんですけど…。
キャラクターとして現代に蘇っている福沢諭吉
福沢諭吉(桃太郎電鉄~昭和 平成 令和も定番!~)
コナミデジタルエンタテインメントから発売されている『桃太郎電鉄~昭和 平成 令和も定番!』では、中津の物件を独占すると福沢諭吉が出現。仲間にしているとプレイヤー全員の所持金を均等に分配するなど、国民の平等を訴えた諭吉らしいイベントが起きます。
福沢諭吉(文豪ストレイドッグス)
KADOKAWAの月間漫画雑誌ヤングエースにて連載中の『文豪ストレイドッグス』では、武装探偵社の社長として福沢諭吉が登場。冷静沈着な最強の剣士で、部下からも敬われる理想の上司です。設定は45歳だけど、45歳には見えない。
福沢諭吉さん!現代でもご指導お願いします!
福沢諭吉が現代に蘇ったとしたら、ちょっと変人すぎていろいろ大変そうです。…というのは冗談で、当時は実現にいたらなかった国民主権の現代を見て、諭吉はどのように感じるのでしょう。現代なら現代で、よりよく生きていくための新しい方法論を示してくれるかも。勉強せずにお金持ちになれる、虫のいい話とかないですかね?