笑うメディア クレイジー
より良い暇つぶしを届けるメディア

「はやく描けるなら安くして」とあるクライアントの憂うつ

 終業後、それなりによく話す先輩から飲みに誘われた。

「お前はすぐ頷くよな。1回さ。うるせーっつって、戦ってみろよ。編集長、威圧されると弱い感じだから。だって俺、全然なんも言われねーもん」

 先輩は酒好きだけど酔いが回るのは早いタイプで、口から泡を飛ばすようにそう言った。一緒に来ていた同輩の女子は、焼き鳥を串から外しながら「先輩かなりビビられてますよね」と同調する。「そうっすね」と僕は言った。もう11時か。
 いかにもな大衆酒場の騒がしい店内で、2時間ほど飲んだ。選挙演説のような闊達かったつさで喋る先輩の顔が赤く染まり、話がいよいよ要領を得なくなってきて、ついに寝息が聞こえてきたとき、店員が伝票を持ってきた。

「もう出るよね。終電…は間に合うか。つーか先輩これ奢りって言ってたじゃん。爆睡しちゃってるけど、どうする?」

 同僚の「どうする」という言葉の意味を、僕はこの場合くみ取らなければならなかったし、対応も求められた。彼女の目線が今日初めて僕に向く。本当の意味で要求を出すとき、初めて人はちゃんと他人と向き合うのだと思う。僕の目を見ずに怒鳴った編集長を思い出した。

「いいよ。勝手に先輩の財布あさるのはアレだし」

 自分の財布を取り出す。人をたたき起こして金を出せというのも、了見が違う。世間にはあやふやだけどルールがある。それは明文化もされておらず、一部の人間のみが生まれついて読めてしまう透明な条文だった。

 酩酊めいていした先輩に肩を貸しながら、駅までの道を歩く。12月の空気はとても冷たい。

「う、2件目は宅飲み…」

肩に抱える先輩の口からは、そんな言葉がこぼれていた。駅に辿り着いて、タクシーを呼んで、先輩を放りこむ。運転手に3000円を渡し先輩の家の住所を伝えると、「この人、前も運んだことありますよ」と言われた。後部座席に寝っ転がった先輩は「うう」とか「んー」とか唸ってたけど、「また明日」と伝えると、突然「なさけねぇ、ペコペコすんな!」と叫んだ。
 ドアが閉められてタクシーが走り去り、急に静寂が降りてきた。それはもちろん気のせいで、どこかで鳴ったクラクションが路地に反響していた。ふと、1人でカラオケに行きたい、と思った。1人でなんて行ったこともないのに。
 同僚は携帯を見ながら「さすが慣れてるね」と言った。何がだろうと考えている内に、またクラクションが聞こえた。

 

コメントする

※未記入の場合、こちらの名前で投稿されます

※コメントは、コメントガイドライン をご覧のうえで投稿するようお願いします。

暇つぶしアプリの決定版!今すぐアプリをGET