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映画『シン・ゴジラ』にみる「好きにしたい」日本人の国民性

2016年、旋風を巻き起こした映画『シン・ゴジラ』。怪獣映画とひとくくりにできないほど濃い登場人物が多く出ていることでも大変話題になりましたね。

twitter.com@godzilla_jp

そんな、濃いキャラクターたちは現代日本の縮図のように感じられる部分があります。この記事では、このありえないのにリアルな群像劇を、"日本人っぽさ"に着目して考察していきます。

『シン・ゴジラ』作品紹介


東宝MOVIE公式YouTubeチャンネルより

あらすじ

2016年公開の映画「シン・ゴジラ」は、ゴジラという概念がない2016年の日本にゴジラが現れたら、どういった事態が想定され、日本政府はどのように動くのか、という政治群像劇です。

2016年11月3日、東京湾沖で謎の爆発が起きたシーンから物語は始まります。前半部分は「何が起きているのかわからない」状態で暴れまわる、のちに"ゴジラ"と呼称される生き物を、持てる限りの兵器で対処しようとしますが、結果は惨敗。街は壊滅し、すべての首都圏民が避難し、東京は無人の街になります。

そんな無人の街を舞台に、後半では、ゴジラの生物としての性質などを探りながら、物理兵器がほとんど効かないゴジラをいかに倒すか、そしてゴジラ凍結作戦実行までが描かれています。

2週間という期間内に作戦を成功させなければ、アメリカがゴジラに対して核攻撃をしてくるのを、日本人の彼らは「3度もこの国に核を落としてはならない」と必死に阻止するのでした。

みどころ

大災害、壊滅する都市、放射能汚染。これらは3.11の東日本大震災を彷彿させる内容で、樋口監督も着想を得たと述べておられます。

『シン・ゴジラ』は「東日本大震災の時に政治家の人も必死に頑張ったけど、あんまり知られてないよね」というのが本筋の政治劇です。劇中では政治家が対応しているのが、震災でなくゴジラという"災害"なのですが。

そういうわけで、『怪獣大戦争(1965年)』やパニック映画を期待して観ると、ガッカリする人もいるかと思います。出てくる怪獣はゴジラだけですし、ゴジラが暴れること自体よりも、その対策が主軸になってくる映画です。

どちらかというと、スタンリー・キューブリック作品「博士の異常な愛情」のような政治家の駆け引きを楽しむ作品で、画面は主に会議室と研究室を映し続ける会話劇だと認識していただくとわかりやすいでしょう。

雨あられのように降り注ぐ専門用語と敬語だらけで言葉自体が難しく、登場人物たちも淡々としてますので、ファミリー向け映画とは一線を画した大人向けのゴジラ、と言えるでしょう。



『シン・ゴジラ』にみる日本人の国民性

「私は好きにした。君らも好きにしろ。」

このメッセージは、作中でキーパーソンとなる生物学者牧悟郎博士が発した言葉です。彼は生物学者でありながら放射能の研究をしており、ゴジラが現れることを予言していた人物でもあります。映画冒頭で映る、乗り捨てられたプレジャーボートは彼のもの。

このメッセージ、個人的には「わたしは好きに生物学とエネルギーの研究をした。成果がゴジラだ。君たちも好きにゴジラを倒せばいい。核でも何でも使え」という意味だと、面白いなと感じています。しかし、劇中では最後までその意味は詳細を明かされず、観客それぞれに投げかけられたメッセージであるように思えます。

私はこの言葉の後半部分、「君らも好きにしろ」こそ、この作品で日本人を語る大変重要なキーワードではないかと考えます。作中でも「この国で好きを通すのは難しい」、「総理もそろそろ好きになさってはいかがです?」というセリフが出てくることから、重要なキーワードであることは間違いないでしょう。

本作に出てくる日本人は大きく分けて2種類。好きにできない役人・政治家と、好きにしかできない巨大不明生物特設災害対策本部、通称「巨災対」の職人気質な研究者たちです。

矢口蘭堂官房副長官(長谷川博己)

海底爆発時に「何か生き物がいるのでは?」といち早く進言し、先輩から「何をバカなことを」といさめられるも、その後ニコニコ動画、ツイキャス、Twitterなどを情報収集ツールとして駆使する「今っぽい」人です。巨災対もこの人が立ち上げます。

本作の主人公はこの矢口ですが、彼は他の政治家と違い、わりと「好きなように」振る舞い、先輩から苦い顔をされるタイプです。彼以外の政治家・役人たちは、作中でも語られるように、民主主義や議会政治の名のもとに様々な法、世間体、国民の目線などにがんじがらめにされているのです。

対外国、対人間ならば、それは国際平和のために重要なことのひとつなのですが、それが裏目にでてしまう、それが巨大生物災害です。

大河内総理(大杉漣)

作品を観た方ならご存知、「総理、ご決断を」でおなじみの人です。責任感はあるのですが、優柔不断気味。大河内総理の責任ある自由人ぶりもみごとなのですが、彼は先の大戦、つまり太平洋戦争時の日本軍のおこないを大変悔いており、同じ轍は踏みたくないという強い思いにからめとられているキャラクターでもあります。

不明生物第二形態(通称・蒲田くん)出現時、「国民を安心させる」ことを優先させ、その上陸を許してしまうなど、大きな失敗をしてしまう総理。彼の最も日本人らしさが現れるのは、やはり第三形態(通称・品川くん)出現時に射撃を中止させるシーンではないでしょうか?

ヘリコプター部隊からの連絡で「民間人がいる」との情報を耳にした総理が、作戦を中止させたときの言葉が「自衛隊の弾を国民に向けることはできない」でした。

自国民を絶対に撃てない日本のトラウマ

この「自衛隊の弾を国民に向けることはできない」というセリフ、外国の方は不思議で仕方なかったようです。

「1人くらい仕方ないだろう、そこは撃てよ、総理‼」

確かにその気持ちも分かります。しかし、日本という国は特殊な事情の国です。鎖国が明けてから3度目の戦争である太平洋戦争で、味方同士が殺しあう地獄と大敗を経験。もう二度と国が国民を撃つようなことがあってはならない、と一時は完全に武力を放棄することを決意し、その後近隣国の混乱の中で米国に強要されて自衛隊を設立した。それが日本です。

核攻撃をされたことのある唯一の国家でもあります。ですので、対ゴジラであっても、武力行使を渋ったり、民間人が1人残っているだけで砲撃を中止してしまう、というのはものすごく日本人らしい行動といえるのです。

好きを突き詰めた職人系研究者集団「巨災対」

このように何をするにも「とりあえず会議」、「とりあえず書類」で一向に進まない巨大生物対策に、危機感を持った主人公は対策室を立ち上げます。

それが巨大不明生物特設災害対策本部、通称「巨災対」。ここには、首をナナメに振らない優秀な鼻つまみ者たちが集められました。
具体的には、医系技官、野生生物の専門家、生物科学の専門家、統合幕僚監部計画防衛課長などからなる「対ゴジラ」組織です。

そしてそのメンツの変わりようといったらありません。彼らは一様に、好きなことを突き詰めて好きなようにしか振舞えない、社会性の低めなスペシャリスト集団です。日本では「職人」と呼び敬ってきた人たちの、頑固な性格にも通じるところがありますね。「間に合いますかね?」に「間に合わせるんだ」を実行できる職人気質な人たちです。

「巨災対」に見る日本人

巨災対の面々は、曰く「頼まれてもいないのに遅くまで働き、帰れと言って帰らせても早朝に手料理を持って出勤してくる」真面目なのか、ワーカーホリック気味なのか、「24時間、働きますよ?」と言ってしまうような人間ばかりです。
好きだからできるのことなのかもしれませんが、これもまた日本人です。
何度となく壊滅し、そのたびに復興してきた日本、その上、高度経済成長まで成し遂げてしまった日本は、巨災対の面々のような人たちが粛々と仕事をこなしてきたからなのでしょうね。

『シン・ゴジラ』の民間人

指示を聞かないスマホ民

蒲田くんの上陸時、避難を指示されても多くの人がスマートフォンで蒲田くんを撮影していて、動こうとしません。こちらもまた、現代の日本人らしいといえます。

この群衆ですが、避難指示が発動されると、きちんと期間内に避難をし、暴動も起こさず、放射能の危険には自主的にマスクを着用するなど、緊急時の謙虚さや冷静さもあるということがのちに述べられます。

逃げない雇われ電気店店長

避難指示が出ている都心で、1人電気店に残る雇われ店長も、大変日本人らしい人物です。恐らく彼は「この店が被災しなかったときに、後処理を素早く行いたい」という気持ちと、「この店がなくなって、路頭に迷うくらいならば、店と心中する方がマシだ」という、両方の悪く言えば社畜精神であの場に残ったのでしょう。

それもまた、度重なる不景気、就職難に耐えた日本人らしいのかも。

『シン・ゴジラ』にみる日本人

第四形態(通称・鎌倉さん)が上陸してきた際に、多摩川を絶対防衛ラインとし、川崎側に鎌倉さんを固定する作戦「タバ作戦」では、好きにできない政治家による現実的な戦略 vs ゴジラという攻防が行われます。

タバ作戦で使われる武器は基本的には戦車や戦闘機など自衛隊の通常装備で、作戦も自衛隊主導で考えられた現実味のある作戦です。おそらく、本当に今ゴジラが東京に現れたら展開できる作戦だと考えられるでしょう。

このタバ作戦とは別に、好きにする集団・巨災対はゴジラ凍結作戦「ヤシオリ作戦」を展開します。まず、無人の新幹線に爆弾を詰めたものでゴジラを起こし、三菱の高層ビルを倒してゴジラを殴り、無人在来線爆弾でゴジラを転ばせ、ポンプ車で血液凝固剤を経口投与する。

このヤシオリ作戦において、「迎え撃つ側も虚構となる、虚構でなければゴジラを倒せない」。そんなメッセージを含んでいるように感じます。

この2つの作戦のコントラストが、現実にも虚構にも真摯な態度を取るという日本の国民性が一番に感じられる部分。虚構だからと言って手を抜かない、むしろ虚構の方に力が入っている、そういうところが日本人のいいところですよね。

核は絶対使いたくない、できれば武力行使だってしたくないし、あまり武器を持ちたくない。そんな国が特にヤシオリ作戦でどう戦うのかが、この作品の目玉でしょう。

もちろん、作中に「(略)」と出るほど遅々として進まない会議も、現職の政治家が口をそろえて「リアルだ」というほどですので、ぐったりする感じを一緒に味わうのもいいですね。

最後に

「現実 vs 虚構」と書いて「ニッポン vs ゴジラ」と読ませた通り、現実の日本人がゴジラという災害にどう立ち向かっていくかという、ゴジラとしての原点回帰的な作品です。

日本の政治は色々面倒なところもあるかもしれないけど、必死で職務を全うして国を守っているんだよ、ということをきちんと描いた作品ではないでしょうか?

私は「シン・ゴジラ」を見てから、政治の見方が少し変わりました。自由にはさせてもらえないけれど、不自由な中で国を守り諸外国と交渉して、国内の批判を直撃で食らう政治家も、彼らのブレーンとなって働いている自由な職人たちも、店という小さなものを守りたい店主も、スマホでゴジラを撮る以外はちゃんと指示通り非難する国民も、それこそが我ら日本人なんだ、そう感じさせてくれます。

興味があればぜひ一度、観てみてくださいね。