アガサ・クリスティとは?
アガサ・クリスティは "ミステリーの女王"という呼び名にふさわしくその著作のほとんどが世界的ベストセラーとなっている、イギリス屈指の女流推理作家です。1980年9月15日、イギリスの良家に生まれ、「子どもは7歳まで文字が書けない方がいい」「正規の教育は受けさせない」といった方針の風変わりな母に育てられました。7歳を過ぎてからは一般の子どもたちよりも文字の習得が遅く、不憫に思った父が手紙を書かせたり本を読ませたりしたことでようやく教養を身につけていきます。
父の他界後は、母の療養としてエジプトを訪れたり、第一次世界大戦中に薬剤師の助手を務め毒薬の知識を得るなど、ミステリー作家としての知識と素地を養っていきます。終戦後に数々の出版社で不採用となるも、ついに『スタイルズ荘の怪事件』で推理作家としてデビューを飾ります。そして数年後に執筆した『アクロイド殺し』がミステリーファンの間で大論争を巻き起こし、一気に有名作家へと上り詰めました。
エルキュール・ポアロ、ミス・マープルなど、推理小説を語る上では外せない人気キャラクターを次々と生み出し、著書である『そして誰もいなくなった』『ナイルに死す』『ホロー荘の殺人』など、その多くが映画化もされています。今回取り上げる1974年版『オリエント急行殺人事件』は、自身の作品が映画化されることを嫌っていたアガサ・クリスティが、その後の自著の映画化を許諾するきっかけとなるほどの成功を収めました。
エルキュール・ポアロって何者?
本作の主人公であるエルキュール・ポアロ。彼はアガサ・クリスティが手掛けた33の長編、54の短編、1つの戯曲に登場する、“灰色の脳細胞”を持つベルギー人の名探偵です。この“灰色の脳細胞”とは、ポアロの「私の灰色の小さな脳細胞が活動を始めた」という口癖に由来しています。
19世紀中ごろにベルギーのフランス語圏で誕生した彼は、ベルギーで警察官となり署長を務めあげた後に退職。第一次世界大戦中にイギリスに亡命し、そこで友人のアーサー・ヘイスティングズ大尉と再会、殺人事件を解決したことで探偵としての活動を始めました。自信家の紳士で、女性に優しく、几帳面。ぴんとはね上がった大きな口髭がチャームポイントです。
『オリエント急行殺人事件』あらすじ
中東での仕事を終えた名探偵ポアロは、イスタンブール発のオリエント急行に乗り、ヨーロッパへと向かう予定でした。ところが、様々な人々の思惑と共に乗り込んだオリエント急行内にて、富豪のラチェットという男が殺される事件が起きます。彼の体には12の刺し傷。事件解決を依頼されたポアロは、容疑者と思われる人々1人ずつに聞き込み調査を行い、犯人の手掛かりを追っていくのです。
それではいよいよ、1974年版と2017年版を比べてみましょう。
1974年と2017年
マスターピースとの呼び声高い1974年版ですが、オールスターキャストの娯楽作品として製作されたため、全体的に明るい雰囲気が流れるように、冒頭でもラストでも明るい音楽が使用されています。2017年版も冒頭は明るい音楽でしたが、違いが顕著になったのは終盤。2017年版では終盤からラストに向け、悲壮感漂う荘厳な音楽が流れます。これは映画『オリエント急行殺人事件』の2作を語る上で、かなり重要な差かもしれません。
今回の新作は、『ハムレット(1998年)』、『ダンケルク(2017年)』など、俳優としても多くの作品に出演し、シェイクスピア俳優とも呼ばれるケネス・ブラナーが監督・主演を務めています。原作や1974年版にある古き良きものを踏襲しつつ、新設定なども取り入れた、一味違うポアロ像が垣間見える作品です。
キャストの比較
主人公
1974年版…エルキュール・ポワロ/アルバート・フィニー
2017年版…エルキュール・ポアロ/ケネス・ブラナー
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
1974年版のポアロを演じたのはアルバート・フィニー。ピタッと7:3に分けられた黒髪に、くるんと巻いたシャープな黒髭という凝った役作りで高評価を得ましたが、彼がポアロを演じたのはこの1作だけでした。2017年版ではケネス・ブラナーが堂々演じており、白髪交じりのグレーの髪をオールバックにし、モコモコした同色の口髭、顎髭も蓄えています。就寝時の"髭マスク"も健在です。
字幕では、1974年版が「ポワロ」、2017年版が「ポアロ」となっています。旧作ではラチェットがポワロのことをポイロと呼び間違えるのに対し、新作では苗字のエルキュールをヘラクレスと呼び間違えます。「エルキュール」はギリシア神話に登場する怪力の英雄「ヘラクレス」のフランス語形なので、新作の方がよりリアルかもしれませんね。
被害者
1974年版…ラチェット・ロバーツ/リチャード・ウィドマーク
2017年版…エドワード・ラチェット/ジョニー・デップ
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
殺人事件の被害者であるラチェットは、旧作と新作では名前が若干異なります。原作ではサミュエル・エドワード・ラチェットなので、2017年版の方が原作により近い名前。裕福なアメリカ人という設定は一緒ですが、原作では60代の実業家、旧作ではベビーフードの事業を引退している様子でした。
演じたのはデビュー当時"ハイエナ"と呼ばれたリチャード・ウィドマーク。手塚治虫の漫画に登場する悪役のモデルにもなった名悪役です。新作では『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズで海賊ジャック・スパロウ役を務め、老若男女問わず世界的にその名を知られたジョニー・デップが演じたことで、ラチェットもずいぶん若返りました。骨董品販売で成功したという話をしているので、職業も少し設定が変わっています。
容疑者たち
1974年版…ヘクター・マックイーン/アンソニー・パーキンス
2017年版…ヘクター・マックイーン/ジョシュ・ギャッド
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
ラチェットの秘書兼通訳のアメリカ人青年です。旧作は痩せているアンソニー・パーキンス、新作を体格の良いジョシュ・ギャッドが演じています。こちらの役名は新旧一緒でした。
1974年版…エドワード・ベドウズ/ジョン・ギールグッド
2017年版…エドワード・ヘンリー・マスターマン/デレク・ジャコビ
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
被害者のイギリス人執事。原作でマスターマンだったのが1974年版でベドウズに改変されていましたが、新作では原作に沿ってマスターマンが採用されています。
1974年版…アーバスノット大佐/ショーン・コネリー
2017年版…ドクター・アーバスノット/レスリー・オドム・Jr
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
1974年版では初代ジェームズ・ボンドとして知られるショーン・コネリーが、インドからイギリスへ帰る途中の英国軍大佐としてアーバスノットを演じていました。
一方、新作では黒人俳優であるレスリー・オドム・Jrが演じましたが、これは昨今のハリウッドの人種的多様性を考えた上でのことでしょう。それに合わせて、当時の有色人種の環境を鑑みた上で、アーバスノットは大佐ではなく軍医に変更されたのだと思われます。事実、新作では「君の人種では軍医になるのも大変だっただろう」という内容の会話が見られます。
1974年版…メアリー・デベナム/ヴァネッサ・レッドグレイヴ
2017年版…メアリ・デブナム/デイジー・リドリー
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
バグダッドで教師をしていたイギリス人女性メアリー。1974年版ではブロンドカーリーヘアのヴァネッサ・レッドグレイヴが、新作ではブラウンの髪が落ち着いて見える『スター・ウォーズ』シリーズのデイジー・リドリーが演じています。新作ではアーバスノットと親しいことを隠しているのですが、実は旧作では離婚に不利になると言いながらも、おおっぴらにイチャイチャしています。
1974年版…ナタリア・ドラゴミノフ公爵夫人/ウェンディ・ヒラー
2017年版…ドラゴミロフ公爵夫人/ジュディ・デンチ
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
ロシア貴族の老婦人を旧作ではウェンディ・ヒラー、新作では『007』シリーズで3代目"M"を演じたジュディ・デンチが、どちらも貫録たっぷりに演じています。ドラゴミロ(ノ)フ公爵夫人が連れている愛犬ですが、旧作では白×グレーの毛色が混ざったペキニーズらしき2匹、新作では黒い犬と白×グレーの犬の2匹になっています。ただ、どちらも食堂車のテーブルの上に乗っていたり、客用の食事を口にしたりと、あまりしつけがよくないのは変わりません。
1974年版…ヒルデガルド・シュミット/レイチェル・ロバーツ
2017年版…ヒルデガルデ・シュミッツ/オリヴィア・コールマン
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
ドラゴミロ(ノ)フ公爵夫人の忠実なメイド。新旧で演じたレイチェル・ロバーツ、オリヴィア・コールマン、どちらも気が強そうです。
1974年版…ハリエット・ベリンダ・ハッバード夫人/ローレン・バコール
2017年版…キャロライン・ハバード夫人/ミシェル・ファイファー
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
中年のアメリカ人女性。おしゃべり好きで騒がしい被害者の隣室の乗客。1974年版で演じたのは雑誌「VOGUE」などにも載ったモデル出身のローレン・バコールでしたが、気が強く男勝りな印象の旧作に比べ、新作では『バットマン リターンズ(1992年)』、『ダーク・シャドウ(2012年)』などに出演したミシェル・ファイファーが色気あるハバード夫人を演じました。
1974年版…グレタ・オルソン/イングリッド・バーグマン
2017年版…ピラール・エストラバドス/ペネロペ・クルス
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
旧作では、神経質で少しエキセントリックな中年のスウェーデン人宣教師をイングリッド・バーグマンが演じています。当初はドラゴミノフ公爵夫人役の予定でしたが、本人の希望からこの人物にキャスティングが変更され、アカデミー賞助演女優賞を獲得しました。
新作では、ペネロペ・クルスが信心深い宣教師を演じています。彼女が演じたピラール・エストラバドスは、実はアガサ・クリスティの別作品『ポアロのクリスマス』に登場するキャラクター。今回の映画化にあたり、著作権保護団体アガサ・クリスティー・カンパニーの承諾を得て、原作の登場人物であるグレタ・オルソンの代わりに登場させることになったそうです。
1974年版…ルドルフ・アンドレニイ伯爵/マイケル・ヨーク
2017年版…ルドルフ・アンドレニ伯爵/セルゲイ・ポルーニン
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
フランスへ行く途中のハンガリーの外交官アンドレニイ伯爵をマイケル・ヨークが演じていた一方、新作では世界的に有名なウクライナ出身のダンサー、セルゲイ・ポルーニンが演じ、役の肩書きもまたダンサーとなっていました。
この2人の差はなんと言っても愛想の良し悪しでしょう。社交的な旧作のヨーク版伯爵に比べ、愛想ゼロのポルーニン版は喧嘩っ早くてまるで野獣のように描かれます。これも彼が"世界一優雅な野獣"と呼ばれることから来ているのでしょうか。
1974年版…エレナ・アンドレニイ伯爵夫人/ジャクリーン・ビセット
2017年版…エレナ・アンドレニ伯爵夫人/ルーシー・ボイントン
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
1974年版に登場したアンドレニイ伯爵の夫人、エレナ役を演じたのは、後にアンジェリーナ・ジョリーのゴッド・マザーとなったモデル出身のジャクリーン・ビセット。光り輝くような美しさで伯爵夫人という役がハマっており、当時多くの男性を魅了しました。一方、2017年版で夫人を演じたのはルーシー・ボイントン。旧作よりも幼さの残る伯爵夫人に仕上がっています。
1974年版…サイラス・“ディック”・ハードマン/コリン・ブレイクリー
2017年版…ゲアハルト・ハードマン/ウィレム・デフォー
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
旧作でコリン・ブレイクリーが演じたのは、スカウトマンを自称しつつも実はラチェットから護衛を依頼されている、ピンカートン探偵社に勤める探偵。しかし新作ではオーストリア人の教授を名乗る人種差別の激しい人物を『プラトーン(1987年)』、『スパイダーマン(2002年)』のウィレム・デフォーが演じており、ここでは大きく差が出ました。
1974年版…ジーノ・フォスカレッリ/デニス・クイリー
2017年版…ビニアミノ・マルケス/マヌエル・ガルシア=ルルフォ
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
旧作でデニス・クイリーが演じたのはシカゴで自動車販売をしている陽気なイタリア人。一方2017年版のマヌエル・ガルシア=ルルフォは、キューバで脱獄し、アメリカで自動車販売を行い成功した陽気な実業家を演じています。
オリエント急行関係者
1974年版…ピエール・ミシェル/ジャン=ピエール・カッセル
2017年版…ピエール・ミシェル/マーワン・ケンザリ
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
フランス人車掌。会社重役のビアンキや一等客室の乗客たちにも顔が知られているベテランという役。こちらは新旧でキャラクター名は同じですが、新作の方が少し若い年齢設定のようです。
1974年版…ビアンキ/マーティン・バルサム
2017年版…ブーク/トム・ベイトマン
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
国際寝台車会社の重役。原作でのブークという名を旧作ではビアンキに変更していましたが、新作では原作通りとなりました。ビアンキの年齢設定がポアロと同世代なのに対し、新作のブークとポアロはまるで親子のような歳の差です。ただし、どちらもポアロの事件解決を当てにする少し頼りないおぼっちゃまが非常に似合っています。
1974年版…コンスタンティン医師/ジョージ・クールリス
2017年版…該当なし
旧作で登場したギリシャ人医師ですが、新作ではアーバスノットが軍医という設定になったため、対応するキャラクターは登場しませんでした。
演出の違い
デイジー・アームストロング事件
旧作は事件の大きなカギとなる5年前に起きた"デイジー・アームストロング事件"の紹介から物語が始まります。"デイジー・アームストロング事件"は1932年にアメリカ合衆国で実際に起こった「リンドバーグ愛児誘拐事件」をモデルとしています。これは観客の心を掴む初めの一手として非常に有効と言えるでしょう。
一方で新作は、ポアロがオリエント急行に乗車する直前のエルサレムでの事件解決から物語が始まります。しかし新作においては、ポアロもまた、"デイジー・アームストロング事件"で被害にあったアームストロング家と縁があることが描かれているのです。こちらは今までにない新設定であり、これによって後のポアロの選択はリアリティが増しています。
ポアロの演出
映画『オリエント急行殺人事件』公式Instagramアカウント(@orientexpressmovie)より
2017年版のポアロはかつて愛した人の写真に話しかけたりと、旧作より情緒的に描かれているようです。そして、新作のポアロが何より重んじるのはバランス。「この世には善と悪しかない」という信念を持つのは新旧で同じですが、新作では「完璧主義者」として、バランスに重きを置く性格をより強調した演出となっています。朝食に用意する2つのゆで卵は完全に同じ大きさでなければならない、片方で犬のフンを踏んでしまったら、もう片方で踏んで同じにしないと気が済まない、など、その個性は行き過ぎているようにも感じるほど。
そしてもっとも異なるのは、新作のポアロがなんとアクションまで披露するところ。これには原作ファン、旧作ファンは驚くに違いありません。
真相解明のその後に
事件解決後、1974年版ではオリエント急行の中でそれぞれがシャンパンで乾杯するシーンが映し出されます。これは旧作がオールスターキャストの作品であったことから、カーテンコールの意味合いを込めたとシドニー・ルメット監督はインタビューで答えています。
一方、2017年版では事件解決の後、乗客たちはいったん列車から降ろされます。長いテーブルに12人が並ぶ姿はまさにレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」。ポアロ、あるいは容疑者たちが下す"最後の審判"を待つシーンは、とても荘厳でドラマチックです。
最後に
映画『オリエント急行殺人事件』公式アカウント(@OrientMovieJp)より
本作は「善と悪」をテーマとしながら、「法と正義」を問いかける作品にも仕上がっています。「真の正義とは何か」を問いかけられたポアロは一体どうするのか?その後の事件にどんな影響を与えるのか?旧作と新作、まだまだたくさんの相違点があり、それらを見つけるのも楽しい『オリエント急行殺人事件』。2017年版を劇場でお楽しみいただくと同時に、今なお色褪せない名作と呼ばれる1974年版もぜひ、ご覧になってみてはいかがでしょうか。
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